京極夏彦さんの署名本に「うしろにゐる。」と識語が入っていたのだが、これは京極サーガの文脈だからこそたった6音で効果を発揮する〈呪文〉になっている。
京極夏彦の物語とは一言でいえば「わたしの背後におびえる〈主体〉」の物語だから。
そう考えると、〈呪文〉とはそれそのものに意味があるのではなく、〈呪文〉外部の壮大な文脈によって意味がスパークする〈文脈力〉のことなのだということがわかってくる。
呪文とは、文脈なのだ。
〈文脈力〉によってたとえほとんど意味をなさないような短いことばでもダイナマイト級の意味の起爆を生み出す。
だからもしかすると短歌・俳句・川柳も呪文として奏功する場合は、いや短詩型文学でなくたって、〈好き〉というありふれた唯一無二の日常的呪文でもいいのだけれど、もしかするとそれらの意味の起爆はめいめいがもつ文脈力とも重なってくる場合もあるのではないか。
もちろん呪文自体が壮大な文脈を引き寄せる事だってある。
眼にした瞬間にものすごく気になってしまった短歌でも、日常のなかで文脈もなくとつぜん言われてしまった〈好き〉でもそこからあなたはみずから文脈づくりに躍起になるかもしれないからだ。
呪文とは、あなたをハイパー文脈クリエイターにさせる。
しかし共通していえる事はやはり呪文のちからとは呪文をサンドイッチする文脈にあるのではないかということだ(もしくはサンドイッチをつくらせてしまう力)。
というよりも、好きといわれたあのひとからそういえばあのとき俺コパンもらってるよね!?といった文脈が呪力をもちはじめるのが、呪文なのだ。
だから、穂村弘さんが、「俺にとっての呪文は本屋で探してみつかるものじゃなくて、自分でみつけなきゃだめだったんだ」と気づいたときに〈呪文〉とは、呪力化されるような文脈の生成(呪文的世界観)/文脈を呪力化するような呪文の発話(呪文的短歌)、のことだったのではないかと思うのだ。
つまり呪文=呪力とは、文脈を逆に呪文化していくちからのことなのだ、たぶん。
好き、と相手にいったときに、好き以外に発話したすべてのことばがひっくりかえり、呪文化すること。
そしてそこからさらに〈好き〉が磨きがかかって呪文化されていくこと。そうしためくるめく呪文パノラマとしての、その、ちから。ちから、ちから。