不可逆が自我をつくっていくのだ、ということをけっこう信じていて、たとえばその不可逆は、締め切りでも遅刻でも失恋でも不合格でもなんでもいいのだが、ともかく〈もうとりもどしのきかないこと〉というのは、〈とりもどしがきかない〉がゆえにそれまでを切断して〈わたし〉をつくる。
つまり実はなにかを積み上げていったりうまくいくことが〈わたし〉を形成していくというよりは、締め切りが終わり原稿が掲載されてしまった(手直しができない)、失恋して愛が失われてしまった(会えない)、不合格であの大学の入れなかった、などの〈不可逆〉がむしろ〈わたし〉をつくるのではないか。
〈不可逆〉とはおそらく〈とりもどしがきかない〉がゆえにこの〈わたし〉が死ぬまでひきうけていく〈なにか〉なのである。
その〈なにか〉の積み重ねが〈わたし〉になっていく。
成功やうまくいくことは過程になじみ、プロセスとなり、馴致されてしまう。
しかし、しくじりや失敗は、馴致にも過程にもならない。
でもそのなじみがたい〈わたし〉を〈不可逆〉の重層として、ミルクレープのように重ねていくことが〈自我〉と呼ばれるもののように思う。
比喩として、ひとは無限の選択ができる。
でもそういった不可逆のミルクレープをめいめいがもつ点においては、ほんとうに選べるのは比喩でなく、〈ひとつ〉なのである。
ひとは、生きるその過程において、おどろくべきことだが、たった〈ひとつ〉しか、選べない。

 たったひとりを選ぶ 運動場は雨  倉本朝世