わたしは、☎がすきだ。
でんわはきらいだし、でんわするのもうけるのもきらいだが、☎はすきだ。このマークが、すきなのである。
すきなものをきかれると、わたしはいつも、「☎」という。
なかなかくちであらわすのはむずかしいが、それでもいつもなんとか「☎」と発音している。
ときどき、わかってくれるひともいて、あ、☎、すきなんですか、といってくれるひともいる。
そんなときは、へえ、☎のそんないいかたもあるんだ、とぎゃくにかんしんしてしまう。わたしもじっさいこの☎の発音はよく知らない。いつも、賭けをするみたいに、発音している。もしもし、伝われ!、と。
だから、☎の発音のしかたを説明するのはなかなかむずかしいのだけれど、あえてことばにしてみると、だいじなものをおもいだせそうでおもいだせないときの《ん゙ーぁ》に近い。その《ん゙ーぁ》をうらがえして発音すると☎になる。わたしは☎を発音するのにけっきょく二年くらいかかった。だから、おもいいれが、ある。結婚式のスピーチでも披露したこともある。人生にはみっつの大切な☎がある、と。すなわち、みっつの《ん゛ーぁ》。
たとえば誰かにはじめてであって自己紹介をしなければならないときなども、わたしはこんなふうにいうことにしている。「わたしは、すきなものと、趣味と、すきなことばを、一度きりでしかも一字で答えることができます。それは、☎です」。それくらい、すきなんだ。☎、が。
あだ名が、☎だったこともある。
恋文に、あなたのことが☎です、と書いたこともある。じつはその文の意味はわたしにもいまだによくわからない。でも、そう書いてしまったのだ。なめらかに。ある必然をもって。
そういうことってあるんじゃないのかな。もしもし。
卒業文集では、わたしはなにか思い出ののこる文章にしようとおもい、すべて、☎で書いてみた。すると、こんなに電話にみちあふれて書いてあるのに、あいてにまったくつながらない文章も珍しいんじゃないかな、という電話が担任から、家にきた。
わたしは、もしもし、といった。
担任は、なあ、いった。
そろそろ☎も卒業だよな、と。
わたしは、すこし、びっくりした。びっくりしたせいで、口から何個か、☎がこぼれた。いや、何個かどころではなかった。それは、あとからあとからこぼれおちた。
わたしは、電話をうけながら、☎をはきつづけた。眼からも、ちいさな、とてもちいさな☎があふれおちた。
もしもし、と担任がいった。とてもきれいな発音で、もしもし、と。
わたしのまわりは☎でいっぱいだった。
受話器をとられることも、回線がつながることもないおびただしい☎のなかで、わたしは、担任の、果てしない、しかし、世界でいちばんきれいな、もしもし、をうけつづけた。
その、もしもし、をそれからなんどもなんどもわたしは人生でつかうことに、なる。もしもし、と。わたしは、たえず、問いかける。
だれもが、そうだろう。
だれもが、しぬまで、なんまんかいも、受話器にむかい、だれかにむかい、自身にむかい、もしもし、と問いかけるのだ。
陳腐ではあるけれど、もしもし、は、世界にみちあふれている。
たくさんの☎はうしなわれてしまったけれど、でも、ときどき、胸がいたんだり、せつなくてたまらない、というときは、胸のあたりから、☎がいくつか、こぼれおちてくる。かわいた音をたてて、それはあちこちにころがっていく。なんですか、これ、といってひろいあげるひともいる。ひゃくねんごしの、アポロチョコレートみたいだ、と。
ひとはいつだって、もしもし、と世界にといかけながら、だれかから、もしもし、を受信しつづけている。たぶん、いや、きっと、そうなんだ、と、あなたがひろってくれた☎を、てのひらにやさしくもらいうけながら、やわらかく受話器をとるように、わたしは、おもう。
そのしゅんかんに、明日からの、もしもし、が、来る。