リズムゲームと恋愛シミュレーションゲームが実は奇妙なところでリンクしているんじゃないかという思いがあってその話です。
大塚英志さんの『「おたく」の精神史』によれば、1996年に起こったブームが、「バーチャルアイドル」です。それをよく表しているゲームが『ときめきメモリアル』であって、たとえばプレイヤーは藤崎詩織といったゲームの女性キャラクターと戦略的に恋愛値を高めていくという恋愛シミュレーションを行います。
ちなみにこの1996年に注目してみるとリズムゲームとしてゲームにちがった位相をもたらした『パラッパラッパー』が発売された年でもあります。タイミングよくボタンを押すことでリズムを重視して音感でゲームをクリアしていくのがリズムゲームの特徴です。
ここであえてこのふたつのゲームの共通点を析出してみるならば、それは〈バーチャルな身体〉への志向なんじゃないかとおもうんです。それはもっというと、バーチャルな身体が過不足なく、恋愛できるくらいに、ストレートにわたしの身体そのものがリズムとしてゲームに入力できるくらいに、リアリティをもった、ということができるんじゃないかとおもうんですね。
そのバーチャルな身体のリアリティをじゃあなにが用意したのか。プレイヤーという受容層にそのリアリティを抱ける側の意識のモードを用意したハードウェアはなんなのか、というとそれが立体視=ポリゴンを重視したプレイステーションとセガサターンだったんじゃないかとおもうんです。
スーパーファミコンで重視されていたのは、ドットの美しさであり、スーパーファミコンが最後にクライマックスで到達したのも、『ファイナルファンタジー6』にみられるようなドットの絵画美術的美しさだったとおもいます。ただそれは、あくまで絵画美術のように平面としての美しさだった。だからゲーム的身体とじっさいのプレイヤーの身体とのあいだには距離感があった。





でもスーファミの次世代機のプレステなどにはポリゴンとしての立体の身体があった。ポリゴンの身体といえば『バーチャファイター』などが有名ですが、ここでは目に見える美しさというよりは、関節が人体とおなじようにどのように動かすことができるかといったより人間のアクションに重きがおかれたゲーム設計がなされています。
1996年、メディア史上もうひとつ受容層に大きな変化があったのが、「ケータイ」の浸透です。1990年代半ばに契約者数が1000万を超えた携帯電話は「ケータイ」と呼ばれるようになります。それは携帯電話がもはや日常化しており、簡略化するほどに日常的に使われることばになったからだと思うんですね。で、そのケータイの浸透はまさにみずからがボタンを押すというバーチャルな行為が実際の人間関係を左右していくというバーチャルな身体のリアリティの感受としてあったのではないかとおもうのです。
つまり、1990年代半ばにバーチャルな身体への意識の変換が徐々におこなっていたのではないか。それが『ときめきメモリアル』や『パラッパラッパー』やケータイがつないでいたのではないかということなんです。
そういったシミュレーションとしての身体は、もしかしたらシミュレーションとしての関係性も引き寄せるかもしれません。1997年の『失楽園』や『チョコレート革命』の「不倫ブーム」です。「不倫」というのもかんがえてみると、バーチャルなシミュレーション上のバーチャルな身体=セッ クスではないかとおもうのです。不倫は、リアルが侵入してきた瞬間、破綻します。しかし、バーチャルな幻想をいだくかぎりは、継続します。
こういったバーチャルな身体から文化をつないでいけることもあるのではないかとすこしかんがえてみました。