上がドラゴンクエスト3のゾーマ。下がファイナルファンタジー5のネオエクスデスなんですが、図像からみてもわかるとおり、ドラゴンクエスト系のラスボスは中心と対称軸がはっきりしており、身体の分節も明確なのが特徴です。どこで考え、どこで発話し、どこから何を放ち、どこが痛むのかがわかりやすく描かれています。はっきりとした主体だということがわかります。おそらくラスボス自身もじぶんの身体を明確に把握し、コントロールできているのだとおもいます。
一方、ファイナルファンタジー系のラスボスは、その反対の図像ケースが特徴的です。ドラゴンクエスト系が具象化なら、ファンタジー系は抽象化といえるようにおもいます。だれが主体なのか、だれがしゃべっているのか、だれが先導しているのか、そもそもじぶんじしんをどう把握しているのかがプレイヤーにはわかりません。
では図像ではなく、ラスボスの発話はどうなっているんでしょう。

たとえばドラゴンクエスト3のラスボスであるバラモスは戦闘前に勇者たちに次のようにいいます。

「ついに ここまで来たか。
この大魔王バラモスさまに
逆らおうなどと 身のほどを
わきまえぬ 者たちじゃな。
ここに来たことを くやむがよい。
ふたたび 生き返らぬよう
そなたのハラワタを
喰らいつくしてくれるわっ!」

ここでわかるのは、「逆らう」という逆らう対象がはっきりと明示されていること、また「ハラワタをくらいつくしてくれるわ」という咀嚼としての食べる器官とその器官の消化活動が明示される、哺乳動物とそう変わらない生態の描かれ方です。
一方、ファイナルファンタジー系として、いちばん最初のファイナルファンタジーのラスボスであるカオスの戦闘前台詞をみてみると、

カオス「ハハハハ……わしをおぼえているか? そうだ!わしはガーランドだ!
いまから2000年後の未来……おれはおまえたちにころされた。だがあの時 4つのちからがおれをタイムトリップさせた。
そして過去によみがえったのだ!
時はめぐっている…… 
わしは2000年後のために4ひきのカオスを未来に送りこんだ。
そして4つのちからで ふたたび未来の自分をタイムトリップさせるのだ!
2000年のち…… わしの記憶は失われている。
だが わしはまた過去にもどってくる!
そして おまえたちはここで死に わしは永久に生きつづけるのだ!!」

と、かなり哲学的で、はっきりいってしまうと、〈よくわからない〉(おっしゃる意味がよくわかりかねますが)といった発話内容です。ファイナルファンタジー系のほかのラスボスもそういう傾向があるのですが、「時間軸」や「無」といった抽象的な概念をみずからの言説に組み込んでくるために、概念の共有ができていないと正直理解が難しいのです。また、カオスなのに、みずからを「ガーランド」と名乗っていることもポイントです。アイデンティティがねじれているので、発話主体との距離がとりにくいのです。
くらべて、ドラゴンクエスト系は一貫して世界征服とかなり具体的です。世界征服には、「無」や「時間軸」といった概念がなく、マテリアルに徹する行いです。またたとえばそういった征服する/されるといった上下関係は、社会においても、メディアにおいても、さまざまなかたちでアナロジーが展開されているので、理解しやすいのだとおもいます。
つまりたとえてみるならばこうです。ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー両者とも、プレイヤーキャラを滅したいという欲動は共通しているのですが、それを言説化する際に、ドラゴンクエスト系は、「おまえをこれからいじめてやる!大将になってやる!」とかなりシンプルでわかりやすく具体的なのですが、ファイナルファンタジー系は、「すべては無だ。しかしわたしは過去や未来を超越してふたたびまたかえってくるだろう。そのとき永遠がおまえもわたしも凌駕する!」といいながらとつぜんパンチしてくるのです。パンチの理由がよくわかりません。
こんなふうに、具体と抽象という対照的なかたちをとるながら、展開されていたのが、ドラゴンクエストとファイナルファンタジーではなかったのかとおもうです。抽象概念の展開は、やがて〈恋愛RPG〉としてのファイナルファンタジーを生み出します。恋愛とは、抽象的な概念です。具体性はやがて〈子育てRPG〉としてのドラゴンクエストを生み出します。育児・育成とは、具体的な行いです。
かなり図式的な区分けなのですが、二大RPGともいわれたこのふたつのロールプレイングゲームのラスボスからはそのようなおおまかな対照性がみいだせるようにおもうのです。