マリオをプレイしているととても不思議なことがあって、たとえば、クッパはマリオのためにいろんなステージを用意しているわけですが、マリオをじぶんのもとに来させないためには、すごくおおきな穴をあけておくなり、すごく高いブロックを積み上げておくなり、マリオの身体が不可能なことをしておけばそこからマリオは来られないはずです。しかし、クッパはマリオを来させないようにしながらも、最終的になんとかすれば来られるようにしています。これはとても不思議なことです。
つまり、クッパが用意しているであろうステージは、すべてマリオの障害物となるべくして立ちはだかるというよりは、マリオという身体の可能態をくまなく試す/教育するためにあるのではないか、と。
そこにおいてはマリオのすべての可能性が試されます。あんなジャンプや、こんな判断や、そんな回避といった可能態を贈り物として提示してくれるのがクッパです。
ルーマンの『近代の観察』によれば、愛とは、恣意的な関係、たとえば家族を結びつけるためのメディアです。大事なことは、「ねえ、愛してる?」というのはメディアだということです。「ねえ、愛してる?」とは、わたしのことをちゃんとみてる?と同時に、わたしはあなたのことをちゃんとみてる、という相互観察行為を発話してることになるからです。愛とは、相互観察行為をさまざまに言説化しながら、愛というメディアとしておたがいの結びつきをそれとなく強めていくことです。だから、あいてに関心がない状態、興味がない状態というのは、あいてのことを観察していないということなので、愛としてのメディアは機能不全に陥ります。つまり、愛していない、ということになります。
ここでかんがえてみたいのは、わたしたちはマリオをプレイしながら、マリオのすべての可能態を観察することになります。しかしその行為を成立させるためのすべてのステージを用意してくれるのは、ピーチ姫ではなくて、クッパです。
あえておおきくいうならば、クッパはマリオを愛しているのではないかとおもうのです。しかし、すべての可能態をみるためにはマリオが動いてくれる必要があります。そのためにクッパはピーチ姫をさらいます。つまり、ピーチ姫とは、クッパの愛のメディアだということです。クッパの愛とは、プレイヤーの愛そのものです。そして、ピーチ姫とはクッパの愛を媒介する、愛のメディアです。その二重の愛とメディアをかけぬけるのがマリオです。
ルーマンは『近代の観察』のなかで、(クッパに)こんなことをいっています。
「家族形成のためにコミュニケーションのなかで用いられるメディアは、愛である。愛が心理的に実現されねばならないのは言うまでもない。しかしさらに愛によってすべての関与者は、自分が他者によっていかに観察されているかを考慮しなければならなくなる。無関心さは愛が欠けていることの兆候なのだから」。だから、スターやファイアーフラワーをステージのほどよいところに用意して関心を示せ、と。愛(はい)。