『ファイナルファンタジー10』がそれまでのファイナルファンタジーシリーズとは目立ってちがった特徴のひとつに、ダイナミックなカメラワークによる演出というのがあったとおもうんです。
それは人物の内面の代弁が、もはや記号的に絵で処理されたり、ことばで処理されたりするのではなくて、語り手のまなざしの動態によるダイナミズムによってまなざされる人物たちの内面の動きや葛藤があらわされるようになったっていうことなんだとおもいます。
そういった語り手の変化によって、ファイナルファンタジーがそれまでのファイナルファンタジーシリーズとは一線を画してどのような飛躍をとげたかのかといえば、それは、〈いま、ここ〉に対する意識をたえずプレイヤーに喚起する、という〈いま、ここ〉としての物語の主題化だったのではないかとおもうんです。
ファイナルファンタジー10のとても印象的な曲に「いつか終わる夢」というタイトルの楽曲があるんですが、この「いつか終わる夢」というタイトルにあらわされているように、いま、ここで語られている夢や物語は「いつか終わる」ということを語り手もプレイヤーもともにずっと意識しつづけるということです。だからこそ、いま、ここの人物の内面に寄り添ったかたちで語り手は機微をもってアクチュアルにまなざさなければならない。一回性のまなざしとして。「素敵だね」というプレイ中に流れる歌も〈いま、ここの素敵〉をいかに〈いま、ここでしかない素敵〉としてまなざせるかどうかが大事です。それは「いつか終わる素敵」でもあるので。
そうしたファイナルファンタジーというタイトルとは裏腹に「いつか終わる」ファンタジーとしての意識を前景化しつつも、いま、ここにある「ファンタジー」を的確に一回性のものとして表象できるカメラワーク=視線を語り手がたえずプレイヤーにおくりつづけること。
それが『ファイナルファンタジー10』がそれまでのファイナルファンタジーシリーズとは一線を画したひとつの理由だったのではないかとおもうのです。