てがみというのは〈てがみ〉であるだけで、〈読めよな〉という読ませることの圧力になっているので、凄いよなとおもう。
あんまりないことなのではないか。
つまり、てがみはあなたへの〈てがみ〉であることがつねに、すでにメッセージになっている。
というよりも、あたりまえのことだが、てがみのてがみ性は〈てがみ〉であることからなりたっている。その意味で、白紙だって、それがてがみなら、〈てがみ〉なのである。
でも、ときどき、だせないてがみもあるよなあ、とおもう。
いいたいけれどいえないこと、いえなくてだせないこと、しかしじぶんのなかからはそのひとにてがみをだすしかないこと、しかし返事をもらってはいけないてがみ、つまり読まれないことをはじめからその運命としてもっているてがみであること。
しかし、こんなふうにかんがえたりすることもある。
そういった水面下の読まれないだされないてがみは、だされたてがみの無意識として組み込まれている/いくのではないか、と。
もちろん、返事も無意識としてやってくる。だからそれはだされたわけでも、返事をかえされたわけでもない。無意識のはなしだ。
けれども、てがみにも無意識があって、それは読まれえない・出されえない・書きえないてがみではあるのだが、それでもてがみ(の無意識)としてやりとりされ、交歓されつづける。てがみ、の無意識、のてがみ、の無意識の。
かんがえてみれば、てがみは〈封〉をするものであり、てがみは、そのはじめから〈封印〉されている。つまり、てがみというものはあるていど基本的には〈無意識〉的・〈抑圧〉的なものだ。わたしたちは〈わざわざ〉かたく封をしててがみをだす。まるで読まないでくださいといわんばかりに、しかしあなただけがかならず読んでくださいという圧力と強度を附加して。
どういうことなんだろう、とじようとしたり、ひらかせようとしたり、しかし、深奥はとじようとしたり、とじたかたちでひらかせようとしたり。

なんだ、てがみ。

せかいでいちばんこわいのは、てがみだと、おもうことがある。封をきらないかぎり、〈それ〉は、みえない。〈それ〉はそこにあるが、〈それ〉はいつまでも、やって、こない。
せかいでいちばんすてきなのは、てがみだと、おもうことがある。封をきりさえすれば〈それ〉は、みえる。それはいつでもあなたのてもとにある。あなたのてもとにあるのに、それはものすごいはやさで、めのまえから、いつでも、いつまでも、やって、くるのだ。