ひめくりカレンダーで、すきな絵柄がでたら、ひめくるのはどうしたらいいのか、めくれないではないか、わたしの人生はここでとまってしまうのではないか、えいえんに5月13日にわたしはとどまりつづけるんだ、この、あいまいな、よくわからない、あたたかくもつめたくもない、ぱっとしないときのなかで、ねえどうしたら!とゆうじんに電話をかけたら、ゆうじんが、それだけひめくったあとでたいせつに保存しておいたらいいんだよ、といった。
わたしはおどろいて、ちがうよ、ひめくりは基本全部保存しとくんだよ、あとですきになる絵柄かもしれないじゃないか、ねこもしゃくしもひめくりはぜんぶ保存しとくんだ、それしかないんだよ。保存しないものなんていちまいもないんだよ。いやだなきょうの絵柄は、とおもっても、とっておくんだ。ためいきつきながら。みらいのわたしのために。ひゃくねんごにも5月13日にいるかもしれないわたしのために。だからひめくりはハードなんだよ、ひめくりって荒行なんだ、かんたんにてをだしたらいけない!
ひめくりは、つらい、しんどい作業だとおもう。
テレビドラマなどで、画面のかたすみに、ひめくりがちらっとうつったりすると、わたしはとたんにあたまをかかえて胸をいためる。みんな、がんばってひめくってんなあと。どうしよう、と。世界中で5月13日にとどまりつづけるひとたちが続出するんだ。わたしだけで解決できるもんだいじゃない。みんなで、ふんぎるように、いっせいに、ひめくらないと、みんな、そこにとどまったままだ。
ドキュメンタリーなんかをみていても、その家の壁にかかったひめくりばかりがきになって、ひめくりばかりみている。いっそ、このひめくりを中心にしたドキュメンタリーにいまから語り直したものにしてもらえないかとさえ、おもう。
365日ひめくりをしつづけた「ひめくりにめくられた日々」というタイトルのドキュメンタリーだ。
嵐の日にも彼、彼女はひめくる。娘の結婚式の日にも、彼、彼女はひめくった。はじめて愛をしった日のひめくりもあるだろう。愛がしんじられなかった日にひめくることに挫折したひめくりの日もあるだろう。
とりあえず、わたしは、まだ5月13日にいる。
去年、の。