恋愛には不思議な逆説性がある。
唯一無二であろうとすればすれほど、類型性にかすめとられていくところだ。「すき」ということばはだれかがすでにいった「すき」であり、だれかがすでになした「すき」というやりかたである。しかし、「すき」は「すき」以外に、ない。ないのだが、ないからこそ、それは過去・現在・未来にわたって、なされ、なし、なされるであろう「すき」である。絶対的に、唯一無二のあいてに「すき」と発話することは、ただちに、相対的に、だれでもあるあいてへの「すき」へと参入してしまうことでもある。
つまり、恋愛するということは〈恋愛する〉ということなのだ。
だから、恋愛の類型化を逃れるためには、恋愛しないようにして・恋愛するしかない。
しかし、恋愛しないようにして・恋愛するなどありえるのだろうか。
それは〈好き〉や〈大好き〉や〈愛してる〉をどの言説にも回収されないようにする、ただひとつの(やりかたでおこなわれるはずの)実践である。
だからそれは、書かれたことのない小説を書くことにも似ている。
恋愛するすべてのひとは(潜在的)小説家である。たぶん。
というよりも、ほんとうにあいてに「すき」といえたときに、ひとは小説を書いている。それしかなかったやりかたで。