スーパーロボット大戦っていうゲームは「ロボット」というゆるくふかいカテゴリーのもとに時空をこえてロボットたちがつどい、大戦するゲームなんですが、たとえば、ガンダムとエヴァンゲリオンが共闘したりとか、マジンガーZにシャアがやられたりとかかんたんにいうとそういうアニメのクロス・オーバーをたのしむゲームです。
で、このゲームのいちばんのおもしろさっていうのは、そういう期待の/意外なクロス・オーバーもさることながら、なんどプレイしても〈しつくせない〉ことそのものにあるようにおもいます。
戦闘シーンでは、ひとつひとつの動作を行うごとにそれ専用のセリフをキャラクターが発するんですが、かなり膨大に用意されていながらもランダムであるため、なかなかすべてを聴くことはできません。
またたとえすべてを聴くことができたとしても、あいてとのセリフとのかけあいによってセリフそのものの意味も変わってくるため、たとえばセリフをデータベース的に収集したところで意味がありません。かけあいによってセリフの意味が変わってくるため。
基本的にゲームは、データベース構築の世界だとおもうんです。たとえば、マリオをかんがえてみても、ステージをクリアーすることで、未知のデータを収集しつつ、すべてのデータを既知化することがゲームをプレイするということのひとつの側面だとおもうんです。アクションでもロールプレイングでも育成でもそういったデータベース収集になっているとおもいます。
でもこのスーパーロボット大戦っていうのはデータベース収集のありかたから、〈かけあい〉へシフトすることでむしろやればやるほど既知が未知となっていくような仕掛けとなっています。セリフのかけあい、ことばとことばがぶつかりあうことによる意味作用っていうのは、ゲームの攻略とは関係ないことなんですよね。しかもそのセリフを発してるひとたちがガンダムやエヴァンゲリオンなのでメディアのなかでもどんどん文脈が構築され、さらにセリフの意味生成が変わってきます。
で、このスーパーロボット大戦の仕組みを文学でやっているひとがいて、それがラテンアメリカ文学のボルヘスなんじゃないかとおもうんです。
ボルヘスはとてもみじかい短篇というスタイルでこのスーパーロボット大戦をやっているようにおもいます。
たとえばボルヘスの短編に、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」という短編があるんですが、これはメナールさんというひとが、まったく『ドン・キホーテ』そのものを、おなじものを書いてみるという小説です。うりふたつの同じものを書くだけなんですが、意味作用がちがってくるんです。こうかんがえてみてください。たとえば、一字一句おなじ『吾輩は猫である』を村上春樹が書いて出版したらと。本屋に村上春樹『吾輩は猫である』が並んでいます。文章は漱石とおなじものです。しかし、村上春樹と署名されています。だから、夏目漱石と署名されているときは同じテキストでも解釈がちがってくるはずです。たとえば、村上春樹の猫と、この猫を比較しつつ読むひとがでてくるかもしれない。あえてすこし古めかしい文章をえらんで書いた村上春樹の文体についてかんがえをめぐらせるひとがでてくるかもしれない。「僕」から「吾輩」への主体の変化について感想を書く人がでてくるかもしれない。
こんなふうに〈かけあい〉で意味は無限になります(ボルヘスの「バベルの図書館」もおなじ仕組みで、本が無限です)。
〈かけあい〉の消費とは、消費しつくせないということで、ゲームのデータベース的消費のしかたをシフトしているようなきがします。ちなみにこんなふうにかんがえてみてもいいかもしれません。このスーパーロボット大戦というゲームはボルヘスがつくったゲームなんだと。浩瀚な文学者が、さいごにガンダムや蒼穹のファフナーにきょうみをもった。きょうみぶかいことです。