『ファイナルファンタジー2』は、出会った人間がワンエピソード終わるごとにつぎつぎと死んでいくというある意味、《身近なひとの死》がテーマになっていたんですが、このゲームの大事なことは、そういった内容面としての死のテーマではなくて、言説レベルにあらわれた純粋な表象としての、もっといえばドット単位でゲームにおける《死》をあらわそうとしたことにその特徴があったのではないかとおもうんです。
ファイナルファンタジー2は、ファミリーコンピュータのソフトだったんですけれども、たとえばその当時、ファミコンソフトにおいてプレイキャラクターの《死》がどのように描かれていたかというと、たとえば、マリオを思い浮かべてもらうとわかるんですが、《下に落ちていく》もしくは《画面外からアウトする》というかたちで《死》が描かれていました。もしくは、ロックマンのように《散逸》してアウトする。また、ドラゴンクエストなら《画面が赤くなる》といったかんじです。
で、うえの画のファイナルファンタジー2の戦闘画面をみてもらうとわかるんですけど、《死》が《つんのめった身体》として描かれています。
つまり、なにがいいたいかというと、ファイナルファンタジー2における《死》の表象の特徴は、《死》を《たおれふすボディ》として描いてるわけです。消えないわけです。ドットのボディとしていつまでもそこにたおれてる。
そのたおれてる時間の振幅が《死》としての時間になるわけです。
これはすごい大きいことだったんじゃないかなとちょっとおもったりします。
そもそもが、ゲームのプレイキャラクターが《たおれふす》といった身体行為そのものが描かれることはほとんどまれというか、皆無にちかかったわけです。なぜなら、ゲームに無駄な時間はいらないから。
また、もしプレイキャラクターがよしんばたおれたとしてもそこに時間差としてずっとたたずんでいるわけではない。わたしたちがそれをまなざす時間なんてなかった。
でも、ファイナルファンタジーはその時間をつくってしまった。《死》とはゲームが省いてきた「無駄な時間」としての時間の余白のなかにあるのではないかと表象してしまった。たぶん。
つまり、ファイナルファンタジーははじめてボディという概念をゲームのなかにもちこんだのではないかとおもうのです。ボディとは、《死》を時間幅で感受することによっと、はじめてふちどられる身体のことです。
そして身体概念を手に入れたファイナルファンタジーがドラゴンクエストの世界征服モチーフとはちがう方向に、つまり、世界におけるわたしの存在論にむかいはじめたのは必然的だったのではないかとおもうのです。たとえば、あるラスボスは、「わたしはどこからきてどこへゆくのか」と神になりつつも世界にむかって問いかけます。しかしその問いそのものは、みずからが身体を手に入れてないと、身体感覚=いま・ここにいる、という感覚がなければできないはずです。
そういったファイナルファンタジー(最終幻想)がついえる消失点としてのボディを内包していったこと、そこにファイナルファンタジーのおもしろさとテーマがあったのではないかとおもうのです。