こんなにもひとをおもいつづけるなんてあたしってきもちわるいですよね
みたいなことをいっていたひとがいたのだが、ただ原理的にひとをすきになるっていうことは、きもちのわるいことなんではないかとおもう。これは、わるい意味でのきもちわるさではなく、よくもわるくもきもちわるいという。
みちをゆきかうひとも、電車でとなりにいるひとも、だれもそのひとのことにそんなにもこだわりはしないのに、わたしだけがそのひとにこだわりつづけている、ねてもさめてもこだわりつづける、そういったきもちわるさがひとをすきになることの根っこにはあるのかなっておもう。
だからこそ、ひとは結婚という制度や美しい愛の物語という枠組みを参照することで、きもちわるさを補正し、純正化していくのではないだろうか。
岩松了が、恋愛はどこかにふたりで破滅していこうとするような要素をふくんでいる、といっていたけれど、このことにきもちわるさはどこか通じている。
だからといって、きもちわるいからわるいわけではなくて、そのきもちわるさがけっこうじぶんじしんの根っこにたいせつになってくる場合もあるんじゃないかなとおもったりもする。
きもちわるい、っていうことは、じぶんじしんがズレる/ブレるからこそ、そうおもうのであり、だからこそ、じぶんとしての非・じぶんにめぐりあい、そこからまたじぶんにたちかえり、じぶんを組み換えていけるチャンスでもあるのだ、とおもう。
きもちいい状態は、じぶんをより堅固にし、絶対的にし、じぶんをじぶんから離れなくするための装置だともおもうが、きもちわるさはじぶんでありつつ、じぶんという衣服を相対化するチャンスのときでも、ある。
きょうが、とてもきもちわるかったからこそ、はじめてであう空も、あるかもしれない。それは、こんなにもすばらしくきもちのわるい青空だ。