無印の抱きまくらを買ったのだが、どうやって、抱いたらいいのかわからない。
わからないので部屋のすみにおいておいたのだが、どうも部屋のすみにだれかが闇のなかで横たわっているようにおもえてならない。
ならば、やはり、だこう、とおもい、またベッドにもってくる。
でも、だきかたがわからない。
しばらくすがりつくようにしがみついていたが、だんだんみじめなおもいがして、やめる。
すごくやさしくやわらかくだきしめたりしてみるが、なんだか気をつかってねているようで抱かない枕がいいかな、とちょっとおもったりも、する。
股間にはさむのはどうだろうとおもったが、なんだか枕にのっていま旅立たんとす、ってかんじで、なんかやだな、っておもう。たびだちたくは、ない。
ゆうじんにでんわをかけて、どうやって抱いたらいいのかな、ってきいたら、もろてをおおきくひろげて抱きまくらを信頼するんだ、といわれる。そしてもう離さないっておもいながらねむるんだよ、と。
もろてのところがいいね、とわたしはでんわをきりながら、おもう。
しかし、それでも、やっぱりだけないので、添い寝してみる。ときどき、こっちをみているきがする。たぶん、みている。いやだな、っておもう。ひとは、あっちをむいて寝たり、こっちをむいてねたりする。各人さまざまだ。そしてあっちをむくことやこっちをむくことにさえ、思想をもっている。もっているとおもっている。
むかし、あっちをむいてふだんはねているというひとが、二酸化炭素がいやなんだよ、とその理由としていっていた。
二酸化炭素によってじぶんの日常が決められちゃうことがあるのかと、わたしはそのはなしをきいておもった。そして、酸素バーみたいなにんげんになりたいなあ、とも。むりなんだけれど。酸素を吐くにんげんなんてなれないのだけれども。でも、わからない。あしたは、くるから。わたしが酸素をはいてもはかなくても。わからないんじゃないか。
わたしは、抱きまくらをじっとみる。
抱きまくらのかたわらに、抱けないにんげんがよりそっている。遅延である。すべてがおくれてやってくるのだ。抱擁も、遅延して、やってくる。抱きしめることはいつも時間差だ。ひとは時間をとびながら、かけぬけながら、抱き、抱かれるのだ。じゃあ、その合間にいるひとは?
その合間にいるわたしは、思い出している。
あの日、わたしは、無印で抱きまくらを買った。
わたしは買った抱きまくらをかかえて、街をあるいた。
わたしは抱きまくらを抱きしめながらあるいていた。
抱きしめるいがいにおおきなまくらを運びようがなかったから。
わたしは抱きしめながらそのまま改札をとおった。だれからもよびとめられなかった。
そのままホームにのぼって抱きしめながら電車にのった。抱きしめながらゆられて帰った。
電車のドアがひらいて、わたしは抱きしめながら、電車を降りた。
そんなふうにして、わたしは、帰り道になかば抱きしめられるようにして家路をたどった。
いくにんかが、ふりかえった。
わたしは、抱きしめなおしながら、あるいた。こんなにも抱きしめなおすという行為をするにはこれっきりだろうとおもった。たぶん。

ひとは、そんなにも抱きしめなおすものだろうか。なにかでも、だれかでも。

雪がふっている。
そのまま抱きしめながら、あるく。