手紙を書いていておもったのだが、手紙を書いていると、手紙をだしおわったあとでかならず書き残した、いいのこしたことばがでてくる。
もちろん、わたしのうっかりなのかもしれないけれど、でもただそれだけではなくて、書き残したことばというのは、《書いた》から、わかった、たどりつけた、それでも書けなかったことばでもある。
書いたから書かれえなかった書くべきことばがでてきた。あなたにたいして。
つまり、手紙の本質とは、書き尽くしたからこそ、書けなかった、書き残したことばにであうことではないのか。
だから、手紙とは、あいてにとどくのではなく、自分に届くのだ。かいたあとに。いつも。
そびれることのうちがわに、いつでも手紙はある。
だから、手紙をだすことはえいえんにできない。
でもそのいみでわたしはあなたに手紙を書けているし、そのいみでしかわたしはあなたにてがみをかけない。
きょうも、てがみがとどきそびれる。だから、わたしは、また、あなたにてがみをおくることができる。