『セレクション俳人 新撰21』から神野紗希さんのサイン。
神野さんと共に俳句ウェブマガジン『スピカ』を立ち上げている俳人の野口る理さんが「文体が人格だとすると、語彙は人生だと思う」とおっしゃってて、ああほんとにそうなんだよなあと、しみじみ思った。

「文体が人格だとすると、語彙は人生だと思う」という言葉を自分なりに敷衍してみると、文体とは組み立て方(統語論)の問題であり、語彙とは選択(範列論)の問題である。
語彙の多寡が問題なのではない。いま自分がもっている語彙を《どのように》選択するかが常に言語活動には賭けられており、だから、人生と似てくるのだ。人生も選択だから。  

ただ語彙=人生を選択したあとに、それを一本のラインにしていくのは、文体であり、人格である。
どれだけ語彙が豊富でも、よい選択ができたとしても、それをひとつのラインとして結べないかぎり、なかなか人生をわがみにひきうけ身体化(つまり人格化)できない。それは語彙をひきうけ文体化できないのとも似ている。
ふだんなにげなくしている言語活動だけれども、《いま、ここ》にこの・わたしとしていきてあることに、ちょっと似ている。

  ∅
  
光る水か濡れた水か燕か 神野紗希

蛍来よ彼女の読書妨げよ 野口る理