さいきんのコントは小劇団化していると有吉弘行がいっていて、なるほどなあ、とおもった。
実際、2013年のキングオブコントをみていても、お笑いでありながら、むしろ劇(ドラマ)をみているおもむきもあった。
なぜ、劇なのだろうか。
「コント・ニュー2013」を観ていておもったのだけれど、ポイントは《隠された内面》にあるような気がする。
かもめんたるのコントもジャングルポケットのコントにも、《実は俺はこんなふうにおもっていたんだよ、隠してたけどな》という隠された内面がある。
つまり、そのときわたしたちが感じるのは、《ふだんあらわれていた内面》と《隠されていた内面》の葛藤のはざかいに生きていたひとりの人間である。そして、ふとした出来事によって、それを暴露してしまった人間である。
そういった内面のドラマ=葛藤は、本来は演劇でみられるものだった。
近代的な内面を要請されつつも、わたしの身体から直裁に構成されるこのわたしの内面が要請される《内面》に追いついていかない。だから、ハムレットは長い独白をする。ことばでまぎらわせようとするから。
それを、かもめんたるやジャングルポケットは《笑い》でオトそうとする。
ちなみに、松本人志はこういった内面を吐露しないタイプのコントをつくっていた。彼がつくっていたコントはその逆で、はじめからあまりに剥き出しな内面のありかただった。剥き出しなので滑稽であるが、剥き出しのあまり当然のことながら傷つく。だから、そこには、笑いとシュールとかなしみが、あった。
剥き出しの内面から、隠された内面にコントのかたちが変わってきているように、おもう。ただロバートのコントは独特で、内面の欠如(このキャラクターは内面がないんじゃないだろうか、ただ純粋に《ことば》しかないのではないだろうか)というぶきみさがある。そうかんがえると、内面とは無関係のからだモノマネをロバートの秋山がいきいきと不気味なまでに擬態(ミミクリ)しているのはきょうみぶかいことだとおもう。