ロバート秋山はコントになると憑依的にその人間になりきってしまうようにおもうんですが、他の芸人のひとがコントにおいてはたとえば店員や刑事などを《演じ》ているようにしか感じられないのに対し、ロバート秋山がなぜ《憑依的》にかんじられるのかというと、おそらくそれはロバート秋山の《視線》にあるとおもうんですね。
ロバート秋山は、コントのときに、語りかける相手(主に馬場)をほとんどみていないんですよ。
どこをみているかというと、《どこもみていない》んですよ。
つまり、これはどういうことかというと、他者に語りかけることばでありながら、身体は他者に向いておらず、むしろ自己の内側へと語りかけているということです。
語りかけでありつつ、どこまでもモノローグなわけです。
それってなんなのかというと、つまり、憑依なわけです。憑かれている。
だから、ロバート秋山はときに、ぶきみです。ぶきみですが、おもしろいです。演じている、といううさんくささが感じられないので。
だからそれを逆手にとって、身体モノマネをしはじめたときもとてもおどろきました。
モノマネはたいてい《言語》ありきか、もしくは《表情》でつくるものなのですが、
秋山はそれを《身体》でやってしまったわけです。しかも《身体》の《動態》ではなく、《静態》でモノマネを行うという画期的なことをやってしまったわけです。
ここにおけるコントとモノマネの秋山の共通点は、おそらく、脱主体性だとおもいます。脱主体的不気味さ。しかし、脱主体だからこそ、カンペキにモノマネできてしまう、演じきってしまうというおもしろさ。
そのような憑依的主体が、ロバート秋山には、笑いの神として、憑いているようにおもいます。