ほんとうにときどき
じぶんと過不足なくぴっちりおなじにんげんにあってみたいとおもうこともあるんですが、
ただもしそんなひとにであったしゅんかん、このひといきるのしんどいだろうな、ともおもうので、あいたくないよね、ってのも、あるんですよね。
たぶんそのしゅんかん、あいてからも、おなじことをおもわれるのだと、おもう。
かなしいシンクロニシティ。
ただ、ひとをすきになったり、きらいになったりしたときに、ひとは、そのひとに、過不足ないぴっちりしたじぶんをみているかもしれませんよね。いや、みているんだとおもいます。
むかしこんなふうにあるひとにいったら、ハア、あんたなにいってんの?みたいな顔されて、あいてがじぶんじゃないからひとをすきになるんでしょ、みたいにいわれたんですが、もちろん、じぶんじゃないからすきになるばあいもあるんですけど、ぼくは、そのじぶんじゃない、ってのがむしろじぶんなんじゃんか、とおもうので。あいてが自分じゃないというその否定の欲動のなかにむしろじぶんはいるよね、とおもうので。
たぶん、じぶんじゃない場所にじぶんじしんの核はあって、だから、たぶん、じぶんじゃないとおもうひととでも、いやむしろそういうひとだからこそ、じぶんと過不足なくぴっちりおなじじぶんをすきになっているのではないかと。
しかしわたしたちはことばでコミュニケーションする以上、すれちがうので、その差異が増幅して、ぴっちり、も錯覚的にとらえそこねるのではないか、と。
しかしだからこそ、その差異が救いにもなって、すきもきらいもつづいていくのではないか、と。
すきとかきらいってそういうじぶんの回廊をあるきつづける暗いふたり遊びなのではないかと。ひかるきらきらではなく、ただどこまでも黒い、なにひとつひからない、しかしそれはかたちとしてはきらきらである、黒いきらきら。