寝込んでいたころ、友人に本を買ってきてもらったことが、ある。
高橋順子の詩集。
岩松了の戯曲。
色川武大の奥さんの本。
友人がどこからかさがして買ってきてくれる。
たまに、そっと、まくらもとにおいていくことも、ある。
ふと眼がさめると、鎮座するように本がいすわっている。すこし、こわい。
本がみているゆめのなかに、ぎゃくにわたしがむりやり入りこんでしまったようなかんじさえ、する。そうなのかも、しれない。
ゆめかな、とおもう。
わたしは手をのばす。
ほんに、ふれる。
つめたくて、きもちがいい。
このほん、水でできているんじゃないかな、とさえ、おもう。
こんなにもつめたくてきもちいいのなら、これは、きっと、ゆめだ。
ドアのしまるおとが、する。
友人は本であらゆるひとを記憶していくのだ、といった。本はあらゆるあなたに通じている。まだ出会ったことさえもない親密なあなたに。
本は、できごとだ。
読まなくても、できごとだし、読まないほうが、むしろ、それは、ドラマチックであり、できごと的出来事である。
わたしにとって、ほんは、せかいの、すべての、あなた、です。
また、ドアが、しまる。

高橋順子と車谷長吉はね、
48年も知らない者同士だったんだよ。
あかの他人だったんだ。
それがあるとき、膝がぶつかったんだね。
48年間もお互いになにもしらないで生きてきた者同士がだよ。
ほんとうに、それは時の雨のなかで出会ったんだよ。
時の雨だれのなかで。
きづけば、わたしは祖母に話しかけているのである。
祖母もまたかつてわたしに本を買ってきてくれたひとりだった。
記憶のなかのわたしは、まだ、おさない。
だが、まくらもとの本のつめたさは
変わらない。
ドアがしまろうとするので、
まだ行かないでくださいよ、
とわたしは祖母に声をかける。
また、ドアが、しまろうとしている。
時の雨のなかで、本だけが記憶していることがある。
わたしも、あなたも、もはやその記憶をもたないし、そもそもがもちえなかった記憶だが、しかし、本だけは、記憶していることが、ある。
ゆめのなかで、
わたしは祖母からそんな話をきいている。
いいや、祖母じゃない。それは友人であり、わたしである。
わたしはわたしに本をてわたす。
本がわたしにわたしをてわたす。
あなたを記憶してきたのはこの・わたしです。
わたしは本をひらく。つめたさはずっと本のなかにとじられている。
いつもわたしをやさしく置き去りにしたのは書物である。
同時にいつもわたしをおびやかしつつもひそやかにだきこんでいくのも、書物である。
あなたの時の雨をおしえてください、とゆめみるような広大な枕もとでだれかがいっている。それはとてもひろく、とてもせまい。
そして、それは凄く遠い場所で、とても間近い場所でもある。
だから、わたしはてをのばしてみる。
伸ばした手でわたしは、とうとつに、どしゃぶりのなか、時の雨のつめたさに、ふれる。