小池正博の句集からあえてだいすきな川柳を一句だけ選んでみる。

《たてがみを失ってからまた逢おう》

たてがみを失った「のに」また逢おう、ではなく、たてがみを失って「から」また逢おう、という順接確定条件の接続助詞が使われていることに注意してみたい。
たてがみを失わなければとりあえず《あなた》には逢えない。しかし、たてがみとはおそらく《失ってはならない》ものである。たてがみとはそれが象徴的な意味であれ、なんらかの比喩であれ、うしなえば、主体が損壊するにちがいないものである。
しかしあなたに逢うためにはたぶんたてがみをうしなわければならない。
でもじつはここまでかんがえてきて、このたてがみの主体はそもそも《だれ》なのかという問題もあることにあらためてきづく。
それはわたしのたてがみではなく、もしかしたらあなたの《たてがみ》かもしれない。あなたの《たてがみ》がうしなわれたらそのときはじめてわたしはあなたに逢いにいけるかもしれない。
その意味でこの川柳はわたしやあなたや不特定のだれかの、たてがみにかんする喪失が充満した川柳である。そして喪失ののちに、すかさず、光が、さす。
だれかがうしなえば、だれかに逢える。
これはそういった川柳だとおもう。
しかしそういった主体の傷みは、たてがみがうしなわれこそあれ、いやうしなわれたからこそ、だれかとつながることのできる潜勢力を秘めているということではないだろうか。忘れがちなことではあるけれど、傷んだ主体というのも、じつは主体なのである。そして傷んだ主体にしかなしえないことも、ある。そして傷んだ主体にしかもてない意志もある。だからといって傷めばいいというわけでもない。いいというわけでもないが、傷んだ主体という主体もあるのだということはどこかで希望としてもっていてもいいようにおもう。《バートルビー》のようになったひとにしか織りなせない言説も言説行為も、ある。
川柳には、《また逢おう》と記されてあった。《また逢える》ではなく。
《また逢おう》とは意志である。語り手は、また逢おう、といっている。たてがみをうしなったあなたやわたしはもうわたしやあなたでないかもしれないのに。それでも無邪気に、無根拠に、また逢おう、と語り手は、いう。たてがみをうしなったわたしとして、たてがみをうしなったあなたへと。
愛と喪失と必然と偶然と賭けとたてがみと傷をめぐる川柳。
これはそういう川柳だと、おもう。
たしかに、めぐりすぎでは、ある。わたしもいま、これめぐりすぎじゃね、とは、おもった。しかし、だれかに逢おうとすることは、たぶん、そういうことだ。そして、だれかに逢おうとすることは、きっと、それ以上に、めぐりめぐることだ。めぐりめぐりめぐりめぐることなのだ。いや、まだ、足りない。

たてがみが、落ちている。
まただれかが逢いにいったんだな、とわたしは、おもう。おもいながら、ひろいあげる。それは脱ぎ捨てられたパジャマのようにも、みえる。そして、それは、すこしさびしくて、すこしいさましいものにも、みえる。
そのとき、ふいに、あ、とわたしはおもう。そもそもだれかに逢うことそのものがたてがみをおとしていくことだったのでは、と。そういう愛のありかたをさかさまにうたったものが《たてがみを失ってからまた逢おう》だったのでは、と。
だれにも、たてがみはある。青空にだって、ある。ひとは、たびたび、逢う。街のあちこちに、たてがみが、おちている。