FFⅩから召喚獣の用心棒。ちょっとギルガメッシュを脱水してドライにしたようなキャラクターでしたよね。
ゲームやるとすぐ廃人になるので大学入ってから捨てたんですが、それでも密猟のようにやってたのがⅩで、そのときははじめて演出が3D化されえたことが衝撃でした。つまり、心情の奥行きと垂直表現ができるようになったという。

もちろん、FFの7も8も9もちゃんとCGだったんですけれども、心情とともにカメラが動き、そのカメラの動きから逆照射されるかたちでキャラクターの心情が浮き彫りにされたのは9がはじめての試みだったように思いました。つまり、わたしたちが心情を託せる《視線》という意識がはじめてうまれたのではないかとさえ、おもいました。

あともうひとつ10ではっきりおもったのは、世界がどうとか平和がどうとか愛するひとがどうとかなんかではなくて、やっぱりいちど《父親》なるものにいいわけがましくも、とおまわりするでもなく、不器用なほどストレートに《父親》に殴りこみをかけ、ぶったおす必要と必然があったんだな、と。

つまりいうなればその《父親》とはそれまでの《FF》的なものだったんだとおもいます。《FF》的なものがまるで主人公の父親のように肥大化し、自意識もやがて失い、《ラスボス》化していた。だからそれを10という転回点をもって愚直に泥臭くぶん殴る必要があったのではないか、と。

だからその意味で10が過剰なまでに《物語》という装置そのものに自己言及的なのはそれまでのFFという《大きな物語》そのものを相対化し、さらにそこに大きな文脈をなげこみつつ、ぶんなぐりつつ、あたらしいFFという《小さな物語》をつくろうとしたのではないかとおもいます。

12はその《小さな物語》を受け継げず、以前の《大きな物語》に回帰しようとしたために《失敗作》とたびたびいわれるのではないかとすら思えます。ここでいう大きな物語とは、エクスデスやカフカがそうであったようにラスボスでさえ自意識を失い、無や破壊という無限的記号に回収されていくような物語です。

実はもしかしたら12の鍵は、バルフレアの父親シドルファス・デム・ブナンザ(ドクター・シド)をうまく物語の中心点にすえて、そこに物語を収束させていくことにあったようなきがしたりもします。とくにエンディングでこどものバルフレアを抱きながらほほえんでいるシドをみたときそう思いました。なんでかれをオーラスにもってこなかったのか、と。このエンディングの演出はそれじゃんか、と。



FFの話をしたのでおまけでギルガメッシュを。
わたしは文学や映画やマンガやアニメのなかのいろんなおじさんがおのおのだいすきですが、なかでもゲームの世界でむかしからとてもだいすきなおじさんです。
ギルガメッシュは名言がとても多いキャラクターでもあるのですが、たとえば「あおーい空 ひろーい海 こんなにいい気分にひたっている私をじゃまするのは・・・ だれだー!!」というセリフからわかるように、《ゲーム》という閉鎖空間とはうらはらの《無限さ》にエクスデスとは逆のかたちで《身体的》にきづいてしまったおじさんです。
しかもその無=次元を文字通り超えてシリーズを駆け抜けつつ、最強の武器を求めて生きつづけるおじさん。まさに時をかけるおじさん。『時をかける少女』の有名なセリフとの以下の対照=応答からもわかりますね。
「未来で待ってる」⇄「このとびらのうらでずっと待っていたぞ! 来なかったらどうしようかと不安になっていたところだ!いくぞ!」