さいきん、サイン本を眼にする機会がやたらと多いのだが、基本的にマンガ家さんのサイン本が面白いなあとおもってみている。
マンガ家さんのサイン本はほぼイラスト付きサインが多いのだが、生(なま)の絵っていうのは、やっぱりそれだけで眼が嬉しくなるっていうか、生の字よりもどことなくゴージャスな感じさえするときもある。
とくに個性派のマンガ家さんだとひとつひとつサインイラストを細密に描いていたりするので、読者のひとも個性派マンガはたまたまというよりもじぶんの熱意のもとにあえて選んで買って読んでいる読者のひとが多いとおもうので、そういった密なサイン入りイラストのうれしさを眼にしたときのうれしさはひとしおのものがあるとおもう。
小説家のひとだと、たいてい署名のみということがおおかったりするが(歌集や句集だと一句いれてくれたりする)、異色なのが京極夏彦さんで、京極夏彦のサイン本はたいてい、ひとこと、識語が入っている。しかもその識語がその小説や作品になぞらえたものになっている。みてたのしい、読んだあとにはもっとたのしい、という仕掛けがサインにほどこされている。
京極夏彦というひとは文体や装幀、内装、書式、書体、レイアウト、著者近影、本人自身の風体だけでなく、サイン本さえも《表現》としてしまうひとなのだなあ、とおもった。ほんとうにこのひとは根っからの表現者なのだな、と。記号に従事し、意味をうみだすことのきめこまかさというか、エンターテインメントというものの本質をよく理解しているひとなんだなあと、あらためておもったし、尊敬した。
サイン本とは、表現の《はしっこ》などではなく、そこでさえもはしりまわれる表現の《場》なんだというのが、おそらく、京極夏彦のサイン本であり、エンターテインメントであり、表現者としての姿勢なのだとわたしはおもう。
ちなみにわたしがもっているのは下記のもので、雑誌『幽』のものなのだが、





御祓済の落款とともに、「後に居る。」とひとこと、はいっている。だから、まあ、これを眼にするときは、いつも、うしろにいる。っていうか、うしろをひとは一生涯みることは、できないので、わたしがしぬまでのあいだ、たぶん、ずっと、うしろにいる。そしてそういう状態になってしまうことを、通常、ひとは、《呪いをかけられた》という。
京極堂がときにみみもとでふっとささやくことで、その人間の主体性を根本からねこぎにし転覆してしまうように、たったひとことの呪言(まじない)で、サイン本にさえ、言祝ぎと呪いをかけ、テクスト全体の意味をひっくりかえしてしまう京極夏彦。凄いひとだなあと、つくづく、おもう。このひとの表現の夏はずっとつづいているのだなあ、と。