松本人志・世界の珍獣から、ニドアライグマ。解説書には、「いったん怒らせると五度洗いする」猛獣、とある。

たぶん、《お笑い》とはきっとどこかで《反復強迫》の世界なのではないかと思うことがあります。
松本人志の織りなしたミスターベーターも、キャシィ塚本も、《反復強迫》を《反復》しつづけることをその《生》の本質としていたのではないかと(つまり、反復される本質といった意味にあってはその本質とは本質ならざる本質なのですが)。
その意味である意味、《病的》なものを逆に肥大化しつつ豊かにした世界がお笑いなのではないかと。
そしてもうひとつ表現のせかいで《反復強迫(リフレイン)》をその生命のみなもととするのが、《詩》であり《歌》です。
そうしたくくりでは、もしかしたら松本人志の執拗に反復することへの欲動、そして反復することによってしかなしえない世界の再生=生産=再・再生産とは、どこかでひょっとすると詩的ですらあったのではないかとおもうのです。
しかし、詩=歌詞がときに反復によってみずからの本質を無根拠なままにさらっと強固であり堅固なものにしようとする政治性とは逆に、笑いはみずからの本質をずらし内破するためだけに反復への執拗な執着をくりかえします。その点においては、もしかすると、詩よりもときにお笑いは《詩・的》な瞬間が動的な時間のうちに存在するのではないかとおもったりします。
つまり、キャシィ塚本やミスターベーターは、松本人志のうたう詩、ということになります。キャシィ塚本が最終的に叫ぶ《二度と来ないからね!!!》をみずからの本質をうらがえしつづけるかのように何週にもわたってリフレインしつづけるキャシィ塚本の永劫回帰はもしかしたら《詩》だけが受け止める領域なのかもしれないとおもうことがあるのです。