内田百閒の「百鬼園随筆」の生原稿。
地下深くの東の北のやや南あたりにいつもあるので、しにたくなるたびに、ときどきとりだして、もってきて、みて、いる。
だいたい、火事のときは、これをもって逃げている。


内田百閒『阿房列車 限定版』のサイン本(署名入りの本)。
これもやはり地下深くにおいているので、ときどきとりだしてみている。そのまま、地下から、もう、還らないときも、ある。わたしじしんがもえてゐたりするとき。


ちなみにその『阿房列車』の函の装幀はこんなかんじ。意想外にハイカラな感じで、ただでさえ混沌と無目的のレールにのった阿房列車はますます異種混淆の混線路へ。ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』のかなしみと希望と破壊を背負ってマコンドに侵入してきた黄色い列車をおもいださないでもない。


もうひとつ文学関連で漫画太郎先生の生原稿を。これもいきるのがつらい星のふる夜などに地下のおくふかくのほぼやわらかいところからとりだしたりとりださなかったりしてみている。


漫画太郎のマンガで特権的なのは《おまえじゃねー》だと思うんですよね。
《俺だよね》って思って動いたひとが即座に《おまえじゃねー》っていわれる世界。
錯誤する主体によって権力関係が反転してしまう。
命令していたはずなのに、その命令がひるがえされ・反転されて、ぎゃくにじぶんがそいつにつかえてしまう。言語的にも意味的にもつかえることになってしまうということです。おまえじゃねーーーー、と。
そういう権力関係が反転されていくさまがギャグになっている世界が漫画太郎のおもしろさのひとつなんじゃないかとおもうんです。
でも、錯誤や失錯によって主体のバランスがたちどころに崩れ、ひいては主体間バランスまで崩れてしまうっていうのはけっこうおもしろいことだとおもいます。
漫画太郎の世界は、反復再生産という《生産》もまた氾濫する世界ですが、それもまた主体を再生産によって稀釈させつつも、附随するテキストを変えること(だけ)により、主体を濃厚に《生産=生成》していくというおもしろい現象がみられます。しかも、それが、ギャグです。
ギャグとは、無意識レベルで演じられる主体の破壊にほかならないのかもしれません。