《えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい》

とうとつだが、笹井宏之さんの短歌のひとつのキーワードとして、《錯綜する輻輳》ということがいえるようなきがする。
つまり、歌えば事態は錯綜するのだが、しかし錯綜した結果、状況は輻輳的となり、束ねられ、奏でられる。
それが《えーえんとくちから》になりうるかはだれにもわからないが、《えーえんときほぐせぬちから》としての歌(テクスト)になりうるかもしれないし、じじつ、なったのではないかと、わたしは、おもう。
たとえば、つぎのような歌がある。

《この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい》

《まちがえて》図書館を建てたいのである。あてこんで、建てるのではなく。
《まちがえ》られる事態は錯綜している。しかし、《建てたい》と志向された図書館によってテクスチャー(文字テクスト)は輻輳しようとしている。えーえんときほぐせぬえーえんのテクスト(意味をくめども尽きぬうたやことばの群れ)がその図書館には寄り集まるだろう。
つまり、それが《えーえんとくちから》になる。逆説的だが、えーえんにとけないからこそ、それが《えーえんとくちから》になる。テクストとは、えーえんとくちからであり、歌とは、そういうものだ、とわたしはおもう。しかし、それでも笹井宏之の歌は《えーえんとくちからをください》というかたちで《えーえんとくちから》を要請しつづける。しかし、《えーえんとくちから》はいったい《だれ》に要請されているのか。
もしかすると《えーえんとくちから》はわたしたち読み手の側にも賭けられているのかもしれない。《えーえんとくちから》とはひょっとすると生きつづけ、読みつづけ、歌いつづけることなのかもしれない。
わたしたちの《えーえんとくちから》とは、なんだろうか。たとえば、わたしたちはだれでも発話することで世界をずらすことができる。発話こそがどんな状況であれ世界にわたしたちが賭けられる最後の賭金になる。
そしてそういったえーえん説くちから、は、きっとどこかで、えーえん解くちからにつながっていく。うたいつづけるとは、たぶん、そういうことだから。

《一生に一度ひらくという窓のむこう あなたは靴をそろえる》