草地豊子の句に「階段の三、四段に置く荷物」という句があって、あれそういえばあの空間ってなんだ、ってじぶんのなかがどよめいた。
たしかに家の階段の三、四段ってふととうとつにある日、荷物がおいてあったりする。荷物っていうか、えたいのしれないモノが。じっとたたずんでたりする。それは、わたしのものではない。あなたのものでも、ない。したしいものでも、ない。なじんでいたものでも、ない。予告されていたものでも、ない。でも、そこに、ある。そこにいすわっている。わたしのゆくみちをさえぎってある。あれは、なんだ?
あそこに、あの階段の中途という空間に、だれが・なにを・おくのか。
あの空間とは、いわば、家族が他者としてあらわれる空間なのではないだろうか。家族でもいっしょにすんでいるひとでもいいが、わたしのしらないあなたがふいにモノとしてあらわれる空間。あなたがここに住んでいただけではなく、棲んでもいるのだというモノモノしいじじつを階段の中途で発見する空間、それがあの階段の三、四段なのではないだろうか。
そういえば、まだ実家にいたころに、ときどきわたしはわたしじしんが荷物としてあの階段の中途にすわってみることがあった。わけもなく。
階段のかんたんにできた闇のなかにもたれながら、わたしがすわっている。
父が、とまどう。どうしたの、と。
でも、わたしはすわりつづけている。父は、いう。どうするの、と。
どこかでちいさなブラックホールをひきだしにしまう音が、する。父が父でない貌(かお)をして、いる。