沈黙で責めるつもりのきみだろう受信トレイの広い平原

増田静の『ぴりんぱらん』を読んでいてふっとおもったことがあって、あ、この本は今日マチ子の『センネン画報』とかがすきなひとにすすめてみたい本だなっておもったんです。
本のすすめかたっていろいろあるとおもうんですけれど、この本すきだったらじゃあこの本なんてどうだろうか、ってすすめかたがひとつあるとおもうんです。たぶん。
で、けっこうそれはわりあいヒットするようなきもする、じぶんがとりあえずだいすきな本をすすめるよりは。
理由はいくつかあるとおもうんですが、似通っている本に気づくってことは、それらの特徴にきづけたからってことでもあるとおもうんですよ、とりあえず。だから、その特徴で本をすすめると、あいても特徴を共有できる場合があるから連鎖的紹介ってヒットするのかなあっておもうんですよね。もちろん、不発もあるけど。たとえば、『81/2』がすきなひとに『アンダーグラウンド』をすすめるとたぶんヒットするとおもうんですよ。

で、じゃあ、こんかいの今日マチ子的/増田静的セカイってなんなのかっていうと、それはおそらく、ふっとしたせまい隙間のなかに青空や平原のような広大な空間をみつけてしまうことだと思うんです。この「てしまう」っていうのがちょっとポイントだとおもうんですけど、期せずして見いだしてしまった《平原》なんですね。だからそれってすごく広いんだけど、どこかそのひろがりがあればあるほどかなしいんですよ。本来はないはずの広さだから。つまり、それってじぶんのこころの空隙でもあるとおもうんですね。しかもじぶんできづくはずもなかった空隙。でももしかしたらそこでちがうじぶんが生き直しはじめるかもしれない空隙。
今日マチ子の本に『炭酸水の底』ってタイトルがあってそれがとても象徴的なタイトルだとおもうんですが、そんなふうに炭酸水の底には広大な空間があるのです。意図せずとも。
そういうせまさがひろいセカイ観というのが両者にある特徴なのかなっておもいます。そしてそれをキャッチできたとき、だれかにじゃあこの本もしよかったらよんでみてってボールを投げてみたいのかな、とおもうんです。それがたぶん、きっと、ぼくの平原です。