シャアのアイデンティティって、
たぶんもうララァにであったことで
ずっと攪拌状態にあったと
おもうんですけど、
そういった散佚していくシャアに対して、
「刻印=同一性」を付与するような「傷」をつけたアムロは
意味深いんじゃないかと思うのです。

なんかなんでもそうなんですけど、
「傷」って
倒錯した二重の意味があるとおもうんです。
ひとつは外部=他者から
「傷」というかたちで
意味づけられるということ。
すくなくとも
その「傷」にかんしては
ずっとその場所が、
外部がとどまりつづけるうつろ(トポス)になるということ。
他者がその場にたゆたう、
わたしがいつまでたってもわたしでないという「刻印」としての「傷」。

もうひとつは、
「傷」っていうのは
外部が注入し、錯綜し、臨界する場所でありながらも、
わたしがわたしであるという刻印であること。外部の絶対零度。
わたしはどこまでいってもわたしなのだという刻印としての傷。

つまり、傷というものは
外部によって成立しながらも、
外部が空洞化することによって成り立つ
倒錯の嵐のような場所だとおもうんです。

そういう倒錯の嵐のなかで
それでもわたしでないわたしとして
わたしがどこまでもわたしである傷をかかえていくということが、
生きる、いきつづける、サバイブするということではないかと、シャアをみながら、ふと、わたしは、おもうのです。
無「傷」のにんげんなんて、いやしないのですから。