人は、

花や植物の名に

くわしい。

いきているからね、

名前をおぼえてもしようがないです、

と野道をあるきながら、人が、いう。

人はいつでも、かなしそうである。

いきものは、かなしいですよ、

とわたしのこころをたどるように、いう。

ことば、書物、氷、星、

しんでるものは、いいです、と。

わたしは

花や植物が好きだが、くわしくはない。

くわしくなろうともしてこなかった。

そういういきかたでは、なかった。

だが、人はくわしいので、

わたしは人のうしろを

ついて、あるく。

これはゼラニウムというのです、

と人がわたしなんだか花なんだかに

語りかけているのを、だまって、きいている。

わたしは、たぶん、人の声が好きだ。

花よりも、すきかもしれない。


人は

ねむるとき、

花や植物の名前を

あげつらいながら、

しずかに、ふかく、眠りにはいっていくのだと

いった。そう、とわたしはいった。

でも、ダリヤの名前を

想い起こしてしまった瞬間、わたしは

いつだって覚醒してしまうのです、

と、人は、しずかに、ふるえるように、いう。

わたしも、それは、わかるような気がする。

愛するものが、愛せないものに

かわってしまう瞬間。

なにかがまざまざと

凍てつくように厳然とたちあがっていく

あのぞっとしない瞬間。

そういう瞬間が、だれにでも、ある。

そういう瞬間をたちあげる名前

ひとはだれでももっている。もっているんだとわたしはおもう。わたしだって、もっている。

だから、わたしは、人に、なにもいえない。

そもそも、わたしは人の名さえ、しらない。


人は、

ダリヤについては

語らない。

そもそも、花や植物以外のことは

あまり語らない人である。

そうかんがえてみると、

わたしは、語りすぎているようにも、おもう。

わたしは、きっと、しゃべりすぎている。

語るにおちるとは

このことかもしれません、

と人にいってみる。

人はおどろいたようにわたしをみたが、

わたしの問いかけにはこたえずに、

人はまた、いつものように、

花の名を、ひとつ、おしえてくれる。