水族館でひととぼそぼそ話し合いをするのが、すきだ。
こんなにも他人から興味をかわれないところも、ないとおもう。たとえば、すっぱだかでだまってくらがりにすわっていても、ゆるされるんではないだろうか(ゆるされはしない)。
もしかしたら、水族館は〈みる〉ということがいびつなまでに特権化された場所なのかもしれない。たとえば、そこに充満するのは魚を〈みたい〉という欲望である。ここにおいては、「ひと」は、〈みる〉べきものをさえぎる障碍でしかない。つねに賭けられているのは、みられるか・みられないか、というこの一点である。デパートとちがって欲望の分散化もない。きわめて濃厚な〈みる〉のありかた。
だが、視線だけがあくまで濃厚なのであって、ここには「わたし」や「ぼく」や「あたし」もいない。だれもかれもがゼロ人称だ。
わたしはただみているだけの存在になる。

マンボウがからだを横にして、水そこにはりついている。しんでいるんじゃないか、とわたしは、おもう。
牛乳瓶のようにあつい水槽に、わたしは、ふれる。透明な、絶対的、距離だ。
かなたにある、マンボウ。

水族館では、魚はみない、
と隣にいた友人が、ふいに、いう。
そうなの?(わたしはいま、マンボウみてるよ。わたしどうしよう)
うん、水をみている。こんなにもたっぷりとデコレーションされた水もないから。
(でもマンボウ……)

「この水槽はおやすみです。ごめんなさい」と貼り札された巨大な、薄明かりのする水槽をだまってみている。だまって、ふたりで、そのなかの水をみている。わたしはすこし友人のことをかんがえている。なんだかじぶんがしっているひとじゃないような気もする。わたしたちのうしろから次々とひとがやって来ては、なにがいるんだなにみてんだなんだなんだおやすみじゃねえかと、口にしては、かえっていく。