鮨屋にふらりとはいった。
たまにこういうことを、する。めったには、しない。でも、たまに、するのだ。

「へい、きょうはなんにしやしょ」
「ちがったふうな・おなじかたちを」
「へいッ」

ちがったふうな・おなじかたちのものを食べながら
わたしは思うのだが、
ちがったふうに・おなじかたち
なんどもなんどもやってくるものが、ある。
各人それぞれ、それはおのおのめいめいなんだけれども、
ちがったふうにして、
けれども核心はおなじかたちで
なんどもなんども、やってくる。
そうかんたんには、かたづかないものだ。

「おまちッ」

また、やってきた。

「さいきん、どうですか、景気のほうは」 わたしは、たずねる。
「へえ、おなじかたちで、ちがったかたちでさ」
「かたち・かたちって、それじゃ、ただのあべこべじゃないですか」
「あっ、いやまいったね、こいつあ、どうも」

それでも――
バッハみたいに変奏して
何度も何度も、それは、やってくる。

「おあいそ、おねがいできますか」
「へい、毎度」

そうやって、
たびたびではないけれど、
たまにわたしはこうしておすし屋さんに行って、
おなじふうな・ちがったかたちを握ってもらう。
なんだか、ちょっとした、じんせいみたいだ。
でも、それがじんせいでない理由なんて、どこにもないのだ。
どこにもありはしない。冷蔵庫にも、本棚にも、シンクにも、バスタブにさえも、ないのだ。
あの空にだって、ないだろう。わたしは、そう、おもう。
そうじゃないかな。あるのはいつも、おなじふうな・ちがったかたちの空ばかりなんだよ。