いやなことがあると
食器棚になんでもかんでもつめこんでしまうひとが、いた。
手紙でも、写真でも、ケータイでも、文書でも、本でも、寄せ書きでも、わだかまった思い出の残骸となったいっさいがっさいをなんでもいれてしまうのである。
でも、それをききながら、ああ、おれも、ひとのこといえないんだよな、とおもった。わたしにも、そういうくせ、が、あった。なかなか、のっぴきならない、くせだ。
かのじょにもわたしにも、食器棚は食器をいれるところだということが、わかっている。食器棚は、やるせない思い出をためこむところなんかではない、と。
なぜ、食器棚が想いでのブラックホールになってしまったのか?
わたしたちは、話し合ってみたのだけれど、よく、わからなかった。
できたら食器をいれたほうがいいよね。なにしろ、食器棚って名前がついているんだから。食器棚に食器が入ってる。そんなにしあわせなこともないんじゃないかな。そうだ、あんなのをいれたいよね、うつくしい、流麗な木目の入った、木製のつやつやしてる、いつまでも頬ずりしていたいようなサラダボウル。
ああ、サラダボウル!
サラダボウルって、なんでしょう。
ぼくらにとって。

でも、雲の少ないある晴れた午後、
かのじょが、清潔に磨かれた食器を、
食器棚にいちまいいちまい
ていねいにしまいこんでいくのを、
わたしは、目撃する。それは、ふいうちのようにやってきて、わたしをからめとってしまう。
ああそうだよな、とわたしは、おもう。そうやって、世界はふいに脱臼したり、変調したりするのだ。それは、ある日、とつぜん、やってくる。だしぬけに、やつぎばやというかたちをとって。
かえります、とわたしはいう。
そうして、また、ちがったかたちで、食器棚をひらいてみようかな、と、ドアをあけながら、おもう。
ドアをあければ、まだ、雲は、すくない。