高校のころに、ずうっと机につっぷしている女の子がいて、

ああ、あの子のつっぷしいいなあ、とうしろの席からおもっていた。

なにかこうかのじょには、

これからわたしはすこしばかりやすんでどこかに行かなければならないんだよ

というような雰囲気が、あった。きっと、そうおもっていたのは、

わたしだけなんだけれど。


昼やすみになれば、彼女はつっぷして本を読んでいた。

折れ曲がった文庫本だった。どこかにねじこんで

歩きでもしていたのかも、しれない。

ちょっと読んではゾンザイに手を投げ出してつっぷして、いた。

うつくしいつっぷし、だとおもった。つっぷしにも希望はあるのだと

感じさせるようなつっぷしだった。もうしぶんのない、つっぷしだ。


ときどき、わたしは、かのじょの、あのつっぷしを思い出して、みる。

つっぷしている人間と、重ねてみることも、ある。

でも、年をかさねるごとに、つっぷしている人間をみる機会がすくなくなった。

というよりも、ほとんど、ないのである。ひとは年をとると、つっぷさなく、なる。

そうして、ひとり、部屋で、つっぷすのである。こえられない夜なんかに。


ときおり、わたしは、友人につっぷしてもらう。

でも、それは決して、あの、つっぷしでは、ない。

ちがうなあ、とわたしはいう。なにがちがうんだ、と友人が腹をたてる。

ひとり、部屋で、つっぷしてみることも、ある。

でも、それも、あの、つっぷしでは、ない。

ちがうんだよなあ、とわたしは、こころからおもう。かがやきが、ない。


ある、よく晴れた朝、

かのじょの席には、うすくひだまりができていた。

あたたかく、おだやかな風が

もうしわけないぐらいのやさしさで教室にふきこむなか、

かのじょは、やわらかく、つっぷしていた。

ゾンザイな手には、ヴェルレーヌの詩集をにぎりしめていた。

ヴェルレーヌ、とわたしは、名前を、記憶した。ヴェルレーヌ。

あとで図書館でさがしだし、読んではみたが、

何度読んでも、いっこうに理解できなかった。

それでもつっぷしながら、たびたび本をひらき、

ひらいては、また、つっぷして、いた。