バッハが
《マタイ受難曲》に用いた構造は

非常にユニークなものです。

それはまず第一に、

ストーリーの展開を

しばしば中断する形で、

個人の信仰を吐露するアリアや

公的な信仰告白としてのコラールを、

随所に挿入したことです。

特にコラールは、

現代の教会もまだ

生ける賛美として用いているものですから、

バッハと私たちを直結する

重要な鍵としての働きをもっています。

例えば、

最後の晩餐の場面で

弟子たちがキリストに向かって

「裏切るのはわたしですか」

と口々に問うと、すぐさま

「わたしです」

とコラールで答えるのは、

劇の登場人物ではなく、

バッハ自身であり、

また現代のわたし自身でもあるのです。

歴史上ただ一度の出来事である

受難劇の進行に、

このように超時間的な形で

我々が介入することによって、

劇は永遠に終わることのないものとなり、

受難劇を歌い、

かつ聴く人が存在するかぎり、

このドラマは、

「今ここで」生起し続ける

デキゴトとなるのです。




     鈴木雅明「戦争とマタイⅠ」