まいったな、まいりました。

何がまいったかというと、

確かに、前の漱石『こゝろ』論を書いた時の私というのは、

かなり精神的にも実生活的にも

ピンチの中にいたということが結構あって、

そういうただ中で、改めて

高校時代の恨みを語りたくなったような衝動の中にいました。

しかも執筆の状態はひどくて、

僕と石原千秋は、『成城国文学』創刊号の編集委員でした。

雑誌を出そうといったはいいが、

原稿がこないという事態になった。

それで編集委員で埋めるしかないという、

きわめて短期間で書いた論文ということになりまして、

僕としてはほとんど「私論文」的に書いているんです。

だからたぶん、あれだけ自分の日常的に考えていることが、

直ちに論文になってしまった、

ということはそれまでなかったと思います。

だから、前田愛さんに、

「先生、こんな私性で論文は書いてしまっていいんでしょうか」

と相談を持ちかけたのもこの『こゝろ論』のときです。

辛い部分があったんですね、最初の『こゝろ論』のときには。

だから、その後の『こゝろ論』を書いているときには、

ものすごく頭にきてね、

「おめえらにこんなことを言われる筋合いはない」

といった気持ちでしたね笑。

ただしかし、

最初の論文を書き終わったときには、

すでに反措定が見えてるんですね。

これはディコンストラクション論文なのだから、

ということを意識してやりました。

やっぱり「私」という青年が、

「奥さん」という呼び方を

今でも言い続けている以上は、

とっても共生は無理なんじゃないかと。

だから、

僕の問題意識として強かったのは、

僕らの時代は結構死んじゃう友人とかが、

わりと時代風潮的に多くて、遺書手渡されて、

ということも現にあったわけです。

そういう場合それをどのように抱えていけるのかっていう

問題が残される。

たとえば葬式の時に親に渡すのかどうかとかね、

そういう具体的な問題とかがあった。

その時にある選択をした場合、死者のことを美化しても

なんにもならないわけですよね。

それから、たとえばテクストとしての遺書を持ち続けてるとすれば、

常に脅かされつづける。

つまり、もらった俺が殺したんじゃないかみたいなね、

そういうことが常にあったわけです。

しかし、「私」という青年にはそういう問いかけがない

っていうことを感じたわけです。

だからあの論文を書き終わった瞬間に

反措定がでてしまったわけです。

これはどうしたらいいのか、ということがあったわけです。

実は『こゝろ』のテクストとていうのは

それを読者の側につきつけてくるところがある。

あるスタンスを選んでそれを批評した場合に、

『こゝろ』だけではなくて、

漱石的な言説っていうのは全てそうなんじゃないかっていう気が

僕はしてならないわけです。

そういう言説は一体どのように可能になるのかということを、

この間考え続けてきたということがあるわけです。




                小森陽一『総力討論 漱石の『こゝろ』