南京豆はどう?(原稿)
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甘納豆はどう?(活字)
葉蔵が
手記を書きなおすとき、
なにがはじまるかというと、
「位相=異相」がはじまる。
世間との「ずれ」である。
たとえば、葉蔵は
「遊戯」と見積もったものが
すべて「実利的」なものだと
がっくりくる。
つまり、
「世間=人間」とのコード(枠組み)が
食い違いをみせる。
それに彼はきづいてしまった。
そこが葉蔵の「失格」たるゆえんである。
では、どう補正するかというと、
「おべっか精神」によって
補正する。
「おべっか精神」とは、
自分を他者として演出することではなく、
むしろ相手にとって自分が他者にならないやう
相手の言語ゲームに参加することである。
葉蔵は、
ブリッジ=メディア=言語が
「遊戯」的な側面があると同時に、
「実利」的な側面があるという
言語の二面性を知っている。
葉蔵は、
カルモチン≠ヘノモチンという
最終的に言語ゲームの通わない他者にであうことに
なる。
だが、じつはそのとき
はじめて葉蔵の物語ははじまる。
手記は、そのゴール地点めざして
はしりはじめたばかりだ。
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