僕はそういった生き方を取ろうと
努めてきた。
おかげで他人から何度となく
手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、
また同時に多くの不思議な体験もした。
様々な人間がやってきて僕に語りかけ、
まるで橋をわたるように音を立てて
僕の上を通り過ぎ、
そして二度と戻ってはこなかった。
僕はその間じっと口を閉ざし、
何も語らなかった。
そんな風にして僕は
20代最後の歳を迎えた。
村上春樹『風の歌を聴け』
*
<Haruki Murakami, HEAR THE WIND SING>
村上春樹『風の歌を聞け』
①
The spring of my fourteenth year
--unbelievable as it must sound--
I burst into speech as if a dam had broken.
14歳の春、
――信じられないと思うけど――
ダムが倒壊したかのごとく
私は、出し抜けに、話し始めた。
②
I have absolutely no memory of what I said,
but I talked a storm for three months straight,
trying to fill in a thirteen-year void,
so by the time I'd talked myself out
in the middle of July
I was running a hundred-and-four-degree temperature
and had to take three days off school.
何を話したかということについてはまったく記憶がない。
しかし、私は、三ヶ月間続けて
むちゃくちゃに話しまくった。
三年の空白を埋めるようなそぶりだった。
私自身をすべてしゃべりつくしてしまった
七月半ば、
私は摂氏40度の熱を出し、
学校を三日間休まなければならなかった。
③
When the fever subsided,
I was neither speechless nor talkative,
just your ordinary boy.
熱がひいたときには、
私は寡黙でも多弁でもなく、
単なるふつうの少年になっていた。
*
訳出部分の、
発話・言語・ロゴスへの
違和=異和、異化、脱親和化=脱神話化
はオースターの言語観に
通ずるものがあると思う。
「ゴドーを待ちながら」のラッキーもそうだが、
過剰な発話が、
言語のシンタクスやパラディグムを
ずたずたに、切り裂いていくこともある。
ロゴスへの違和は
過剰な嗜眠から身体論的に
侵攻することもある。
そういった点で、春樹の「眠り」は
すごくよくできた短篇。
食わず嫌いで春樹を読まないひとが
いるけど、
それはわかるし、
自分もそうだったのだけれど、
でもやはり教えられるところや
救われるところは多いので
冒頭やラストなど
少しずつかじっていく感じで
読んでいってみたらどうだろうか。
もしくはカーヴァーから入ってみるとか。
けれども、逆に
何をきいても春樹一点張りのひとは
あまり信じない方がいいと思う。
コンビネーションをはってこその
作家だとわたしは思うんだが。