久しぶりにブログを書きます、ひと月も空いてしまい、情けない…(>_<)。

しかし!今日観てきたドキュメンタリー映画がとっても心に残ったのに、まだほかほかのうちに気持ちをしたためておかねば!と思い筆を取りました。


今日見てきたのは、
"TAHARIR,PLACE DE LA LIBÉRATION"Stefano Savona監督 
というドキュメンタリー映画です。

題名で、いつの、どこの、何のドキュメンタリーかお分かりになるでしょう。
そう、これは去る2011年2月のエジプト・カイロ。ムバラク退陣を実現した革命の象徴となったタハリール広場を撮影した映画です。


最近、どんどん「ひとり映画館」をしようと心にちょろ火が着いて、情報誌を見ていたら見つけたドキュメンタリー。
今日は金曜日、おもしろフランス映画と迷ったけれど、真面目にもう一度アラブの春について考えられるように、この映画に決定。
結局、ひとりでなくフランス人の友達ユッグと見に行ったのですが、とても良かったです。



ご存じの通り、ムバラク大統領の退陣を求める民衆が集まり、デモをし、寝泊りをし、ときにお祭り騒ぎをしていたのが、カイロのタハリール広場です。
映画は、ナレーターや説明文を一切入れることなく、ただカメラの前の人々が叫び、戦い、またときに静かに熱く語り合う姿を写しています。
映像はとてもかっこよく編集されていて、ナレーターや音響なしに、メリハリのある構成が実現されています。いやむしろ、撮影者の視点がもともと革命現場の「リアルな姿」が持つ動と静の両方を捉えている、と言った方がいいかもしれません。


冒頭、タハリール広場で「ムバラク、退陣しろ」というシュプレヒコールが繰り返される中、画面はただ黙って広場に座る少女や、もの憂げな眼で黙って群衆を見やる老人の姿に移っていきます。何度も何度も響くシュプレヒコールと、画面の中でうつむいたままのベール姿の少女の絵は対比的ですが、革命の瞬間という一つの現実を構成するものとして併存していた、まぎれもない真実の、生の、人間の姿を捉えた表現でした。


広場を横切る人、人、人。ときに音楽を流し踊る人。楽器を手に、音頭をとって「エジプト万歳」とシュプレヒコールをあおる人々。ときに、人場の片隅でムバラク退陣以降の国の形について語る若者達の姿。
「イスラム的なエジプトではなく、非宗教的なかたちの国を創りたい」
「ムバラクが退陣したら、政治は誰が行うの?退陣後も、広場に残って新しい政府の建設を求めるべきじゃない?」
ある少女は携帯で話しながら、
「とにかくタハリールに来てみて!すごい人よ。感動するわよ。」


映画は、広場の熱狂と興奮と乱闘以外の「現場」にも十分目を向けて撮られています。「ムバラクを退陣させる」。その目標を共に掲げて集ったエジプト国民が真摯に政治や国の未来を語り合う姿には無縁を打つものがありました。

もちろん、けが人や死人が出た場面もカメラは捉えています。ただその事実は強調されすぎることはなく、画面は進んでいきます。


50代くらいの男性が、カメラに向かって語るシーン。それは、警察に打たれて4人の大学生が殺された直後のこと。「あの若者達のかわりに、私が死にたかった。もう家では眠れない。」と叫ぶその男性の姿から、エジプトの人々が国の未来へ抱く希望、若い世代への期待が感じられ、革命の切実さが、シュプレヒコールや乱闘から窺うのとは違う形で、胸に迫ってきました。そして、彼が行った言葉、「ここ(タハリール広場)では、ムスリムもキリスト教徒も一緒だ。みんな一緒だ。」は、このエジプトの(もしくはアラブ全体の)革命のひとつの本質を象徴しているセリフでしょう。


そして、自由と正義を求める民衆は、ついにムバラク退陣の報を得て、歓喜に沸きます。
抱き合い、笑い、記念写真を撮る人達。

青空にはためくエジプト国旗、ひらめくその布の端に口づけする若者、誰かが掲げる段ボールのプラカードに青マジックで書かれた「THE END」の文字を写して、画面は暗転します。


しかし暗転ののち、画面は再び昼のタハリール広場を写しています。そこには、人々に取り囲まれふらふらと立ちながら声を荒げる中年のベール姿の女性がいました。
「まだ広場に残っていなくちゃ。どうして誰も聞いてくれないの?軍が政権を取ったって、軍が私達の味方だったことなんてないじゃない。みんな帰らないでよ。まだ残っていましょうよ」
と叫ぶ彼女をしばし写しながら、映画はここで本当の終わりを迎えます。


2011年2月のタハリール広場は、まるで祭りのようでした。しかし、革命は、限りなく祭りに近いけれど、祭りではないのだ、「日常」を再開する時にこそ本当の戦いは始まる、という製作者の鋭い示唆が感じられて、観たものを笑顔にさせずに帰らせる後味に脱帽しました。



フランスは今、大統領選の真っ最中です。一緒にいたユッグは、エジプトの映画を観ながら選挙について考え込んでしまったそう・・。

世界が、いつもより激しい寝がえりを打っていく感じ。
昨日、無事に23歳を迎えました。お祝いにチョコレートをたくさん貰って、しばらくデカダンスな日々を送れそうです^^。


そして、最近、卒業式の写真がたくさん目に入ってきて、ああ人々が旅立っていくなぁとしみじみしております。
フランスにいるため変な疎外感もなくただただみんなの晴れ姿をまぶしく感じています。


一浪してた高校時代の友人達、留年してた大学の友人達、かわいいかわいい後輩達、教養学部の同輩達、その他もろもろの友人先輩達、皆さんご卒業おめでとうございます。


降年したり交換留学に4年で行ったりして、私は回り道してばかりだけど、それでも、今フランスにいられること、2010年度に文化人類に入れたこと、たくさんの出会いに感謝です。

人生万事塞翁が馬、じゃないけど、回り道で得したよって胸張って言えるように、私も大学卒業したいです。もちろん、来年のつもり・・・。

どうなるかなー?

 昨年3月11日、吉祥寺の大学校舎内で芝居の稽古をしていた私達は、後輩ちゃんが「あ、揺れてる」と言ったのを皮切りに机の下に逃げ込みました。小学校の避難訓練の時はお尻まですっぽり入ったのに、私大きくなったななんて感じながら、必至で丸まりました。
 おりしも、ニュージーランドでの地震と建物崩壊の報道が盛んだったときですし、このまま建物が崩れて死ぬのかもしれない、と思ったのは私だけではなかったでしょう。

 そのままその大学で夜を明かし、次の日は妹と一緒に千葉に帰り、その二日後に親兄弟の反対を押し切り半分騙した形でタクシーで東京に戻り、10日後の21日にはなんとか卒業公演をやり遂げたなぁ。。毎日泣いてたなぁ、あの時は。。

 なんて、あのときのことを書くとまた長くなってしまうので、今回は4月頭に宮城県に行った時、7月頭に被災地に行った時の文章をfacebookとメールから転載だけして、備忘録とします。

Before I visited Miyagi
par Motoko Kuroki, samedi 9 avril 2011, 14:30 ·

震災を受けて、それをどのような問題として受け止めるか、どれほどコミットしたいかは人それぞれ。しかし今回日本の多くの人が、震災によって何かを考えることを迫られているだろう。

写真アルバムは、個人的に訪問した宮城で見た光景。



私は震災前は3月末から旅行に行く予定だったけれど、それをやめたのは、自粛でもないし、厳密にいえば、その分の時間とお金を使って被災地支援をしなければと思ったからじゃない。ただ何かをしたいという気持ちはあって、被災地に行きたいとも強く思った。私には、宮城県に住んでいる友人がいる。市外県外からのボランティアを受け付けていない自治体でボランティアをするために、彼女の家に泊らせてもらえるかもしれないと思った。だけど、人助けしたいからと被災地の友達の家にわざわざ滞在するなんて、本末転倒だと思った。だから最初はとても頼むなんて考えられなかった。だからひとまず、自分の「行きたい」気持ちをよくよく覗いてみたら、おもな動機は、「ボランティア」をして「人助け」をしたいからではなかった。もちろん、日本国内という身近なところで起こった悲劇に対してなにかしらの手助けをしたいという気持ちは、人並みにあるつもり。だけど、こんな何の特技も専門も持たない分際で、東京に居ながら可能な活動よりも、被災地に行くことをまず望んだのは、ただ「実態」という濃厚な情報のるつぼから、現実を学びたいから。



今回の震災を受けて、日本という国の「公」の力が問われている。そしてまた、「共」の力はどれほど東北に残っていて、どれほど機能しているのだろうか、ということも。避難所や集団避難で起きる問題は、難民問題にも多少通じるところがあるとも思う。震災を受けて、行政はどういう風に動き、被災者はそれをどのように受け止めたんだろう。被災地の人々やコミュニティは、どういう風に事態に対応しているんだろう。そして、どういう風に、復興へ向けて歩みだしているんだろう。 



そういうことを自分でわずかでもくみ取ったうえで、私ができる支援の形は何なんだろう。



メディアは、正確な情報を伝えようとしつつ、少なからず恣意性を持っている。もちろん私にだって私個人のバイアスはあるけれど、メディアが切り取らない現実を、せめて自分自身の恣意性と一緒に見てみたい。

そういう思いを抱えた私に一定の理解を示して身を寄せさせてくれた友達と、そのご家族に深く感謝したい。友達が私の行動をどう思っていたかは正直分からないし、いやな思いもさせてしまったと思う。そこは陳謝したい。でも、その子がいなければ私は行動できなかったし、またもし単身乗り込んでいたとしても浅薄な自分だけの理解の仕方しかできなかったと思う。

そんな感じで、宮城に行ってきました:)!

 After the earthquake and tsunami, I considered how and what I should and can do for striken areas, as many other Japanese youth. It occured to me to go there. But it strictly is not to work as a volunteer staff. I wanted to see and learn how Japanese "public" works facing this disaster , and how "common" system in a striken area reacts.
 And the problems we find in situations people living in a gymnasium and people stay in other cities(like Minami Sanriku )may be similar to those about refugees in the world...

 I have a friend in Miyagi ,and I asked her to let me stay her house.She took me around Sendai, Ishinomaki ...

  I also think alot about what is "volunteer work". In Sendai, we were waiting for works for two or three hours. And although I had thinking I would help people directly but it was not so.Working, and helping have manymany way to join it. Maybe we or people hoping to work as volunteer want to feel directly that we help and contribute people or towns...



I'd like to say thank you to the friend and her family for welcoming me and told me a lot about the situation.



What I saw and thouhgt in MIyagi.
par Motoko Kuroki, samedi 9 avril 2011, 15:11 ·

2011.4.4―4.7

高速バスを降りてたどり着いた仙台は、一見、通常。よく見ると、コンビニが休業中だったり3時までしかやってなかったり。駅前のマクドナルドは「今日から営業再開しました、お持ち帰りのみ受け付けます」と客寄せ。若林区を歩いていると、広島県の腕章をつけた水道局かガス局の人が一軒一軒訪問していた。車で沿岸部に行くと、報道されている通りの悲惨な光景が広がる。ひっくり返った船や車を、だんだん見慣れてくる自分が怖かった。

しかし概して道路上のがれきはきれいに撤去されている。一部地域では信号が消えていて、栃木県警の人が手信号をしてくれたり。少し走ると、空き地に廃車が積まれている光景や、重機が大量の瓦礫・ごみを分類しながら山盛りにしている様子に出会う。石巻市で目にした光景で気になったのが、歩道に高く積まれた粗大ごみ。地元新聞にはがれきの処理やごみ収集の情報が報道されていた。これから復興していく際に、これらのごみ問題はどうなるのだろう。私有地のがれき撤去も、法律改定を待って遅れているらしい。。

仙台市内のある避難所は、その地域の町内会役員によって運営されていた。崩壊した住宅からの盗難を防ぐために、避難所の人で夜間パトロールもしているという。200人ほどが寝泊まりしているという避難所には、昼間ほとんど人がいない。仕事や、自宅の片付けに出かけているという。そんな中避難所では、韓国系の教会によるアカペラコンサートが行われていた。健康管理は、他県から来た医師らが回診して行っているという。

自主運営を行っている避難所はほかにもあるようで、避難所内で班わけをして連絡事項などがつつなく伝わるようにしたりしているという。こういう、もともと地域にあったコミュニティの働きもしくは避難所の人々によって造られる紐帯の働きは、行政がどうしても届かない隙間を埋めていると言えるかもしれない。

石巻でも仙台でも、半壊した家屋の前によくごみ袋が積まれているのを見た。住民の方が、毎日片付けしているのだ。復興までの小さな、しかしリアルな一歩一歩を、家族で片付けする人々の姿に見た気がした。

 

被災地は、震災直後の切迫した状況を抜け次の段階にあるように思う。たとえば物資は、毛布よりも今はむしろ掃除用のモップが望まれている。石巻のボランティアで行った小学校の掃除でも、千葉県から送られた飲料水を泥を洗い流すのに使った。県内の小学校は、四月内に授業を再開するらしい。。私が訪ねた仙台の女医さんがおっしゃていたのが、「復興のために必要なのは、早く日常を取り戻すこと」。

被災地の子供たちが、新学期を笑顔で迎えられますようにと願わずにはいられない。

被災地の自治体が派遣するボランティアの仕事は、避難所の手伝いや個人宅の片付け(ピアノを動かす、だったり)

、石巻市なら個人宅の泥出しが多いようだ。仙台市内のボランティアセンターでは、朝いちに案件が集中していて、10時ごろに行ったら昼過ぎまで待機、という状態だった。石巻でも多少待機したが、待ちぼうけの感を持つことはなく、避難所となっている小学校の掃除に派遣された。現場に行ってみると、NPOなどから派遣されているらしきボランティアスタッフの人もいたし、また小学校の先生たちが市の職員とともに私たちボランティアに仕事を振ってくれた。

また、ボランティアセンターの運営自体も多くのボランティアが手伝っていた。普段の役所系の人員では手が回らないのだろう。それから、遠く離れた県の市職員の姿もよく見かけた。

ボランティアで何かをしたいという人は、被災県内外で多くいる。しかしそれらの人出は、過多になっているのだろうか?それとも、どこかまだ行政の手が届いていない場所があるのだろうか?後者を考えると、空恐ろしいけれど。。。人々の善意と行動力が、効率よく配置されるといいな。。

今回の震災は、世界でも「文明国で起きたプリミティブな悲劇」として注目されている。ここで日本がどういう風に対応し復興するかは、とくに多くの自然災害を抱える途上国・新興国から熱い視線を注がれるのかな。。



英語、ごめんなさい^^;。
11か月前の文章そのままです。

そして、こちらは東京大学大学院の人間の安全保障フォーラムというNPOによる週末ボランティアツアーに7月に参加した後の、私のメモです。
NPOスタッフの方向けなので少し読みづらいかもしれませんが、面倒なのでそのまま貼ります。備忘録なので、いいかな・・・!?

▶個人的には、三か月前に比べてだいぶ街に活気が戻ったなという印象を受けました。ただ、がれきの撤去とはこんなにも進まないものなのかと衝撃も受けました。仮設住宅とそこに暮らす人たちを、ちょっとだけですが見られたのも良かったです。。。

▶とくに、二日目の岩沼では写真の掃除修復と展示の現場に行かせてもらい、ほかの自治体ではできない体験をさせていただきました。修復は丁寧に行われ、展示にもたくさんの工夫がなされていて、民間ボランティアの企画力、構成力に脱帽です。

▶今回の震災で、「ボランティア」という概念が大きく問われなおす気もします。自己完結という言葉は震災の文脈で特定の意味を賦与され、ボランティアに求められる「能力」となっているともいえます。誰でもできるボランティア、というのはある種の幻想なのかもしれないとすら思えました。また、これは内尾さんともお話していたのですが、ボランティアに来る人々の動機やバックグラウンド、またボランティア同士・NPO同士の支援ネットワークの構図自体も興味深いと思いました。

▶また、個人的には「被災者意識」がどのように構成され、どのようなレベル形成をするのかも気になります。というのも、被災三県と呼ばれている地域内でも、内陸と海岸部という差だけでもおおきな被害の違いが生まれています。非被災県からはみな「被災者」のタグを付けられますが、実際被災地内ではこちらの思っている以上の意識のバリエーションがあるようです。そこには、やはりマスコミによるイメージ形成も大きな影響があると思いますが。。。

▶被災地に入ると、「被災者」という存在の想定の浅薄さに気付かされます。被災者は被災者であるけれども、同時に復興の主体であり、支援者でもあります。とくにボランティアとして現場に入る時に、このような意識を失わないことが大事だなと思いました。またこういう構図・問題は、難民支援問題にも通ずるものがありそうです。

▶人数がスタッフさんも入れて5人というのは、大変贅沢でした!移動もしやすいしとても楽でした。そういう意味で、このツアーを少人数のもの、と規定なさっているのは意義深いと思いました。

▶ただ、せっかく少人数で、メンバー内に被災地を重ねて訪れている方や社会科学の専門家がいらっしゃるのに、ちゃんとした形の議論やセッションの場が設けられていなかったのが残念でした。というのも、私が今回HSFのウィークエンドボランティアに参加しようと決めたのは、単に現地に行ってみてボランティアやってみるだけでなく、人類学的なもしくは社会学的な視点を持った方々と被災地に入ることで、より俯瞰的な学術的な見方を得られるという期待があったからです。もちろんこれは個人的な問題なのですが....。
 たとえば、このような提案をすることは僭越なのですが、内尾さんたちが毎週行かれている中で発見されたテーマや問題点を、出発前に軽く参加者間で共有して、ある切り口を持ちながら現地に行くのも面白いと思います。そのようにして夜少しミーティングの時間を設けて意見交換するなどできたら、東大内NPOで行く意義や濃さがより深まると思います。

▶もちろんこのような意見は、HSFの方針・ウィークエンドボランティアの目的によっては大変筋違いなものとなると思われます。このボランティア企画が、現地ボランティアへの一歩を手伝う、一般に開かれたものというコンセプトを持つものであったら、上のような私の意見はただの東大生のわがままです。ただ、私個人としては、せっかく東大の名前で、専門の勉強をされている方がスタッフとして少人数で実施するものだから、ある程度興味や知的バックグラウンドを共有しているメンバー(もちろん、東大生に限定しろという意味では全くありません。ただこのように共有するには、企画者側からのコンセプトの明確な打ち出し、アナウンスの範囲を考えることが必須と思われます。) で行くことで、震災に対して駒場の院のプロジェクトならではの見方、関わり方が可能になるし、そのようなプロジェクトが存在していてほしいという思いがあります。

▶あと、失礼でなければ、、現地で活動をしているときにも、スタッフの方が「東京大学大学院のNPOで来ています」というスタンスを取ることに躊躇している印象を受けました。 現地で団体をアピールすることの是非も問題だとは思いますが、名前やスタンスを出すことで、また違った関わり方できるのでは、と思いました。




 このときは、岩沼市で写真修複のお手伝いを少しだけして、印象的でした。
グルノーブルでの授業のレポートで、「日本人とカメラ・写真」について考えた時にもこのときのことに思いをはせ、「よすが」としての写真の重要性、否応なしに持ち主の存在や感情を想起させる力を持つ写真と言うものを考えたのを 思い出しました。
 ちなみに、気仙沼市にいったときにはちょうど『コクリコ坂より』上映会がボランティア派遣センターで行われていました。会場の外から、ちろりとコクリコ坂のネタばれを耳にしたのを思い出します。ハヤオも来ていたそうです。うわぉ。

 書いていると、いろいろと思いだしてくるものですね。