昨日、『かぐや姫の物語』みて思った事を全部書き出しました。乱文・長文で申し訳ですが、自分の頭の整理も兼ねてるので暖かい目で見てくださいませ。あと、他からの受け売りもあるしところどころあやふやなんで注意。


そもそも、かぐや姫がなんで月に帰るかなんだけど、平安〜鎌倉時代にはブッダのありがたい教えの効力が切れて、この世には救いも何にもなく、ただただ苦しみに満ちた世界だけが残る(末法思想)っていう考え方が流行った。で、そこから地上は穢れた場所で苦しみや悩みで満ちているけど、阿弥陀様がいる極楽浄土にはそれらがない。だから早くそこに成仏したい!(厭離穢土、欣求浄土)っていう仏教、浄土宗の教えがめちゃくちゃ流行った。(『往生要集』っていう本もベストセラーになった。これは「実際に極楽浄土に往生した皆様のレビューをまとめた本」)


これが中世になると極楽浄土は月にあるんだ!
って感じになった。
んで結局、極楽浄土って具体的にどんなところよっていうと、死んだ人が生まれ変わったら行く所でなんの苦しみも悩みもない世界で穏やかに暮らせる場所なんだけど逆にいうと苦しみや悩みのもととなる感情(もしくは感情の浮き沈み)がない世界なのね。

かぐや姫はそんな世界に住んでたんだけど地上っていう感情がある世界に憧れちゃって、かぐや姫が罰として地上に下ろされる。でもそこで生きる喜びとか、名付けを祝ってやった宴会に来た男にかぐや姫の顔はどんな顔だと煽られて感じた気持ちとか、階級身分の扱いの差(さっきの男に煽られて飛び出すように山に帰ってきたら物乞いと間違えられたけど高貴の姫としてお花見にきたら山に住んでる女に粗相を謝られたアレ)を体感したり、男たちに言い寄られたり、特に倉持皇子とかいう浮気男の甘言に振り回されたり、自分が吹っ掛けた難題のせいで人が亡くなったり、捨丸を裏切るように(姫は悪くないけどね)山を降りてきて、寂しさとか罪悪感とかがある中、京で再会したけどあっちは盗っ人になってるのにこっちは貴族になってるし、しかも捨丸がぶん殴られてるのに自分は何もできない無力感とか、学園ハンサムwに抱きすくめられて感じた嫌悪感とか

色々、感情とか1人じゃどうしようもない慣習に振り回されたかぐや姫が最後に帰りたくない。それでも地上がいいって泣くんだよ……
それをただの一般人じゃなくて悟りを開いて苦しみとかから一切解放された世界の住人、しかもその第一人者である如来様の隣に座れるような威光のあるかぐや姫がいうのよさ…

なんか…ありきたりな感想だけど。この世は苦しみとか悩みに満ち溢れた世界だけど、その中に生きる喜びとか楽しみがあるんだよっていうことなのかなって…(´;ω;`)
ていうかこれが高畑監督の遺作ってのも…
何か思うところがあったのかな。

悟りを開くってのはある意味で人間性=感情を放棄することなのかもね…苦しみから解放されたくば人間やめろってことか……


とりあえず女童ちゃんが可愛すぎて癒し。姫に会いにきた男たちに手紙押し付けられて猫みたいな目するとことか、姫におはぐろ塗る時に自分もおんなじ顔しちゃうところとか…
女童のマトリョーシカ人形欲しい。





かぐや姫が浄土に帰るってことからも結構浄土宗の要素が多い。
月からのお迎えシーンとか知恩院の『阿弥陀二十五菩薩来迎図』そっくりだし。(ググってくれ)
まぁ、モロに阿弥陀如来出てきたし。あと絶対みんな思ったんじゃないかと思うけど如来様にお声を当てて頂けるなら絶対に美輪明宏さんにやってもらいたい。

かぐや姫が劇中で前に地上に下ろされた人がいるってニュアンスのこと言ってたと思うんだけど、これは原作の『竹取物語』が羽衣伝説を取り入れてるから、それに触れたかったのかな?って聞いた。
特に『かぐや姫の物語』では謡曲の『羽衣』のやつが入ってて、『羽衣』は富士山のふもとの三保の松原伝説の話。この話で天女は帰る時に地上を見下ろしながら後ろ向きでふわふわ帰るんだけど東(月の方向)に帰るんよ。
かぐや姫も月に帰るシーンで後ろ向きで帰るんだよね