この作品は出た当初に観賞しました。
この作品を知っている人にだけへのメッセージとなりそうですが、内容は意図して解説しません。
想像力に委ねます。
僕はこの監督、三池崇史のファンであるのですが、娯楽作としてのファンであり、内容についてはいつもいつも最低なものと認識しています。(笑)
なぜかというと、一貫して平和そのものを壊すシナリオが強いことです。
デカダン主義(全てを破壊してしまおうという思想)とも取れるこの13人の刺客は未来を信じる気持ちを感じない。
ただ単なる軍国主義そのもの。
人にされた暴力を暴力でもって戦いに挑む。
なぜこんな作品がヒットを飛ばせたのか。
それは疑問を投げ掛ける結果を出さず、そこにいく「格好いいプロセス」そのものだけを提示しているからと思うのです。
君主に命と幸せを奪われ、生地獄を与えられ無償で挑む戦いは、7人の侍、広野の7人を想像させるが、全くの逆。
「7人」の映画の方は人々を守るための闘いで、平和への目的を持っていてそこへ向かうため終止符を打つための闘いであって、仇討ちの戦いが13人の刺客。
闘いと、戦いの差はデカイ。
こちらとしても当初は怒りと、逆上にかられてしまいます。
無惨に殺された男性や、その妻の手足を切断され、舌を切り取られた事はとんでもない悲劇です。
苦しくなります。
だが、今このご時世にその「罪」そのものを許すことができなくとも、仇で返す事になんの意味があるのか。
「一方的な圧力からの解放」を、また同じ様に憎しみを作り出すための助長を示しているにすぎない。
映倫をもっともっと引き上げるべきであると思います。
倫理観の免許があるなら、それを作らないといけないぐらいの作品だと認識しています。(実際は18禁)
こちらの兵隊が少ないからといって、多くの人数を殺すのは、理由が何であろうと、「予告」が有る、無いだけでテロ行為とどこが違うのだろうか?
結果、誰が何の得をするのだろうか?
そういうことを考えてもらうために有ることが、この作品の意図とするならば、またさらにおかしい。
そんなものを、個人の想像の範囲というのであれば、芸術の意味は逆転してしまう。
意味をわかるように結果を出すのが、人々に影響を与えやすい「写実主義」。
実写化は要らない。
映画化も要らない。
落書きで良いと思うのです。
その戦いをもって結果が被害者の思う「皆殺し」であれば、何も見終わったあとに残らない。
被害者以外、誰も得をしない。
これは、スティーブン・スピルバーグ「プライベートライアン」と比較できる。
ライアン2等兵はその結果のあと、平和主義を貫き、懸命に家族を作り、人生を歩んで老後に戦死者の墓へと向かい悲しみに崩れ落ちる。
それがメッセージとして反映されるから、映像化の意味を持つ。
13人の刺客の結末に残るのは、空しさと祭りのあと。
ぶれまくり。
ファッキンな事をファッキンな戦いで、片方が勝ちました。
チャンチャン。
ってなことは、原始人だろ?
ただただジャンケンを観察しているだけ。
それほどまでに、悪を憎むのであれば、一番悪いのは、被害を受けた人の心と身体。
それを治してあげるために闘う事を専念するべきではないか?
悲しみを癒すのが芸術の成せる術。
被害者の事を想い、その被害者に芽生えた憎しみを取り除くためにはストレスを和らげるだろうが、もう2度と元に戻らない結果がそこにある。
その被害を受けた人への愛が本末転倒している。
RHYMESTER宇多丸さんが、レビューで高評価を飛ばしていたが、稲垣吾郎の役そのものに、その事情はあるだろう。
だが、そんなものに振り回されている武士は、僕の漫画に出てくる武士(たけし)のやっていることと同じである。
でも、漫画のたけし(武士)君は人を殺さない。
わがままな、戦士がわがままに戦っているだけ。
ポピュラーミュージックの「世界に一つだけの花」と同じ。
単純に自分が都合の良い事を都合よく解釈するだけ。
単純にムカついて殺しただけ。
人はほっておいても必ず死にます。
では、どうやってその問題を直していけばいいか。
それを提示するのが文化人の役目だと思う。
今わからないテーマを世に出すということは混乱を招く。
君主が悪い人、その人が産んだ被害者の憎悪。
やはり両成敗ということになる。
それをおさめていくことが闘い。
自分達との闘いでは無いだろうか?
この映画を否定します。
興味のある方は是非御覧になって頂きたい。
エンターテイメント性は抜群です。
だけど、やはりこの映画を僕は否定します。

