福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち)
1835年1月10日〜 1901年2月3日
著述家、啓蒙思想家、慶應義塾の創設者
「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
(明治十八年三月十六日付「時事新報」社説)
福沢諭吉は、明治初頭から、「万国公法」の持つ意味を理解し、文明国家としてヨーロッパ国家のレベルに到達してアジア的な華夷秩序から離脱する必要性を痛感している一人だった。とくに隣国朝鮮が清国の朝貢関係から脱却することを期待し、壬午事変以後、朝鮮に対する清国の支配力が強まったことを警戒して、朝鮮の改革派の手で朝鮮国内の改革が推進されることを期待していた。
福沢は、清国や朝鮮がアジアでしか通用しない朝貢・宗主という華夷秩序にこだわっていれば、いずれ遠からず西洋列強の植民地政策の餌食になると確信していた。また当然朝鮮が列強の支配下に落ちるということは、日本の安全が大きく揺らぐことになることを意味しており、朝鮮が清の勢力下にあることを望む守旧派が牛耳る朝鮮を、なんとしてでも開化しなければならないと考えていた。
朝鮮の改革者・金玉均は、1881年(明治14年)3月6日、福沢と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。
1882年(明治15年)7月23日、壬午事変が勃発すると、福沢は横浜正金銀行から17万円の借款を得、賠償金の一部に充当することができた。また、井上馨から朝鮮国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。後藤象二郎も協力し、フランス公使に艦隊を借りて、自由党の荘士で民兵を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立て始めたが、伊藤博文によって却下される。
1884年(明治17年)12月4日、朝鮮で国内改革派の金玉均らのクーデター(甲申事変)が起こるも失敗。清国の軍事介入によって朝鮮から改革派が一掃されたのを見た福沢は、清国はもとより韓国をも見限る決心を、自身の主宰する「時事新報」に表明する。明治十八年(一八八五年)三月十六日付けの「時事新報」社説において、福沢は「脱亜論」を発表した。
このなかで福沢は、ヨーロッパ列強の東アジア支配が急速に強まる中で、清国や韓国の自発的な近代化を危惧していたが、甲申事変の際の清国の武力介入により、朝鮮の自力改革の火は潰えてしまったと判断するに至った。このような状況では、他のアジア諸国の興隆を待ってアジア全体で西洋の文明国と対峙してゆく構図はもはや期待できない。日本はむしろ積極的に西洋文明を取り入れて西洋諸国の仲間入りを果たし、西洋諸国が接するような態度で清国・朝鮮に接するほかはない、と述べ、「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」とまで言い切って、日本がアジア的国家体制から脱するとともに、近隣のアジア諸国との共存関係への希望を断ち切って、ヨーロッパ帝国主義国の仲間入りをすることを主張した。
このような西洋重視・そして強硬な対アジア戦略のスタンスは、福沢だけではなく、明治政府要路の基本的な外交姿勢となって、やがて朝鮮、中国大陸への武力進出の理論形成の土台となってゆくことになる。
そしてそのことは、欧米列強の帝国主義的なアジアへの武力進出に対抗するには、自らが欧米に伍する国力を保持して、帝国主義を採るよりほかに道はないという国家戦略の転換を意味していたことにほかならない。そして結果として、まず朝鮮への支配権をめぐって清国と覇権を競うことになり、その日清戦争に勝利したことで、今度は中国北部・満州の支配を求めてロシアと戦端を開くことになっていく。
近隣のアジア諸国を見限って、列強の立場につこうとする『脱亜論』は、必然的にアジア諸国の主権を踏みにじる武力支配を説いているものと考えられても仕方がないだろう。『脱亜論』の内容からは、はっきりと列強がアジア・アフリカ諸国に対して行ってきた帝国主義的な領土拡大の意思を読み取ることができるからである。
しかしその一方でこの論理は、苦境に立たされる日本の立場が色濃く反映されたエクスキューズであるという見方も出来る。日本と目と鼻の先にある朝鮮半島の安全保障が、日本の安全保障に直結していることは、だれの目にも明らかだった。
列強が押し寄せるアジアの東端の弱小国でしかなかった日本は、自国を国家として存続させていくためにどのような外交戦略がとれるのか、どうすれば外敵の侵略から国土を防衛することができるのか、という苦衷に満ちた命題と、絶えず対峙せざるをえない状況にあった。
福澤のこの悲痛な叫びは、強硬な帝国主義に裏打ちされた覇権論というよりは、むしろ福沢自身の圧倒的な挫折感と失望が表出した論説とみるのが適当であると思われる。
ところで日本にとって、列強の脅威の中での生存戦略を考えていくうえで必然的に生まれてくるのが、列強と同盟するか、あるいは自衛のために近隣諸国を自国の勢力範囲に置くという選択肢であった。結局日本はその後、この両方を追い求めるあくなき夢を見続けていくことになる。
フランスからの同盟要請に乗らなかった明治十年代の日本は、まだ国家間の協調・同盟についての認識は薄かったといえる。その日本が、列強各国との同盟関係や敵対関係が国家存続のバイタルな要件であることを認識するのは、日清戦争後のことだった。その教訓の一つの到達点が日英同盟で、この同盟があったことで初めて日露戦争に辛勝することもできたのだ。
しかしその後も自国の利害を優先させる日本の外交戦略によって、英国との同盟関係はやがて空洞化してゆくことになる。第一次大戦で武器供与や派兵でイギリスに多大の貢献をしたアメリカは、やがてイギリスとの関係を深めてゆく。その結果が四カ国条約を含むワシントン条約の締結だった。この条約によって日英同盟は実質的に破棄され、日本は絶望的な国際的孤立の道を進んでゆくのであるが、日本にはこのように、外交戦略の拙劣さが絶えず付きまとっていた。


