南北朝期、貞和4年(1348)大崎地方の領主となった斯波家兼公が、郡中に5人の祀官を置き、社の発展に力を注いだ。その中の一人が鹿島神社の第27代にあたる「千波大膳久基」である。このとき、初めて神事を行い、毎年9月9日「湯立て」の儀あり、翌10日に宮城郡松ヶ浜に神輿を下し、海水に禋潔(いんけつ)し、還って流鏑馬の式あり、盛大に祭礼を行うを例とした。
天正5年(1577)大崎義隆公、黒川左頭月舟斎晴氏、鳥居を奉納するなど、大崎地方を治めた代々の領主は厚い崇敬を続けたが、天正18年(1590)大崎義隆公、小田原参陣せず、豊臣秀吉公の怒りに触れ領地を没収されると、後任の領主木村吉清、庶民を暴圧し神事を怠った為、一時は社の荒廃を招き、38代「近江種清」神体を奉じて小野田本郷滝庭奥に非難するやむなきに至った。やがて伊達氏の所領になり、種清はその子山伏「成就坊永善」と共に社に帰り、永善は珍宝山神宮寺と称した。寛永元年(1624)藩主伊達政宗公(貞山公)社殿修理費を寄進して崇敬す。寛永15年(1638)藩主忠宗公(義山公)社参し九曜紋付き御手炉、黄金、良材を献じて社殿造営の資とせしめられ、神器、社殿に伊達家九曜紋の使用を許した。同17年(1640)御竿入れに際し、鳴瀬川の水路移動による水難を逃れ、現在の地に移動遷座し八邑(中新田、四日市場、雑式目、下狼塚、上狼塚、城生、羽場、菜切谷)の鎮守と定めた。
承応3年(1654)本殿を、天和3年(1683)には拝殿を改新営した。元禄5年(1692)には藩主綱村公(青山公)の社参あり、翌6年に新たに長床を建てる。宝永3年(1706)藩主吉村公(獅山公)先考の意をうけて永世修営の資として黄金一枚を献じ、社運の隆盛をはからしめるなど、歴代領主藩主の崇敬篤かったと同時に、庶民からも神鐘、御厨、神輿の奉献が次々になされ社頭いよいよ荘厳さを加え明治の代を迎えた。
明治5年村社に列し、明治30年中新田十日市の本間半右エ門氏の篤志のより長床を改築寄進された。明治43年、大崎八幡神社、多川稲荷神社、神明社を合祀、大東亜戦争の為、300年近き神鐘が政府より回収されたが、昭和30年町村合併2周年を記念し、氏子の寄進により新たに鋳造され、併せて鐘楼を改築献納された。又、昭和29年の町村合併を記念し敬神婦人講を設立し、平成15年には50周年を迎え、記念誌を発刊するなど、大崎地方でも屈指の由緒を誇る神社として現在も歴史を刻んでいる。(ホームページより)
到着したのは早朝 5時🌅
高速道路を使わず国道をひた走って来た🚗💨
石鳥居⛩
御手洗
小川が流れている音に癒される
参道右手に『鐘楼』
画像 上 石碑
画像 左下 沿革史
画像 右下 昭和天皇御製碑
手水舎 ・ 龍神石碑
早朝だったからか水は止まっていました
隨神門
拝殿
手入れされてるのが伺える
何て書いてるのか読めない
造りが細かくて素敵な拝殿
本殿
『おものめ様』参拝所
おものめ様伝説
昔、加美町四日市場元宿に1人の美しい娘が住んでいました。 いつの頃からか、この娘のところに1人の若い男が通うようになりました。その若者はこの世のものとは思われないほど美しい面立ちでした。そして2人の仲は、日増しに深くなるばかりでした。
娘の家には年老いた1匹のガマが住みついていました。そのガマは娘のところに通ってくる若者は、実は大蛇の化身であることを知っていました。 そこで、ある時娘にそのことを知らせ、 若者とつきあうのをやめるよう忠告しました。けれども、恋におぼれて夢中になっていた娘は、忠告を聞かなかったばかりか、ついには若者の子を身ごもってしまいました。
ガマは娘のことを気の毒に思い、「私の言うことを信じないのなら、今度若者が来たら着物のすそに糸を長くつけた針を通しておきなさい」と娘に言い聞かせました。娘は半信半疑でしたが、忠告に従うことにしました。
そのことがあってから、若者は娘のところへ通って来なくなりました。驚いた娘は、何日も夢中になって若者を探しました。そして、とある山道にさしかかった時、目の前に若者の着物につけた糸を見つけました。その糸をたぐって行くと、ある老木の根元のほら穴の中に入っていきました。ほら穴の中を探ると、そこに大蛇の死骸が横たわっていました。それは、あの若者に化けた大蛇だったのです。
娘は嘆き悲しみました。そして家族や世間にわびて、せめて多くの若い人々のために良い縁が結ばれるよう縁結びの神として奉仕したいと言い残し、近くの沼に身を投げました。村人はこれを哀れんで供養し、縁結びの神としてまつりました。これが、鹿島神社にまつられる「おものめ様」だということです。
鹿島神社古墳 標柱
神社社殿の建つ高まりは古墳。古墳時代に造られた円墳である。直径約30m、高さ約4mあり、円墳としては、大崎地方でも有数の規模である。墳丘からは埴輪が採取されている。
末社
要石
現在鹿島神社境内に祀られている要石は昭和48年故事来歴により奉納された「約10トン」の要石で往古の要石と共に祀られています。鹿島神社の境内にある要石は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の象徴として国家の鎮護の石剣として祀られている事は有名です。この要石は国を鎮める意想で日本国をとりまく「リュウ」を鎮める石剣とされています。「リュウ」龍は古代では海水を意味し、日本をとりまく「リュウ」が転化してナマズ(鯰)になりました。 地震は地下にもぐった鯰の寝がえりだとされていて、この要石は地震ナマズを永遠におさえていると云う信仰をうんだのです。(日本民族学全集より)
加美町鎮守鹿島神社社殿の西御山下の老杉の根元に要石があります。
安永書上の風土記にも高さ1尺2寸余、廻り4尺8寸余(住古より要石と申伝候事)とあり、頭の方1尺余り出ているが地下の大鯰の背中に達していると云われて来たもの、これは常陸の鹿島神宮の要石に模したものと伝えられます(風土記参照)
8月8日の地震により、南海トラフ地震の発生の可能性が高まったことで、この神社に立ち寄らせて頂きました
要石
大地震が起きない事を祈ります🙏🏻
この神社は要石だけでなく、古墳の上に社殿が建てられていて、おものめ様伝説という大蛇と娘の伝説まである✨
とっても神秘的な場所でした
次回のブログは
⛩鹿島神社を後にして向かった⛩鹽竈神社をご紹介します
ありがとうございましたー