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金沢・新おもてなし考

日本人は本当の日本や日本人の良さを理解しているでしょうか?

金沢の街で日本文化を外国の人にちゃんと理解してもらうため、話し合いましょう!

第27回 国際ポットラックサロン「新おもてなし考」

最後の弟子が語る 恩師・三木成夫 ― その人となり



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語り手 向川 惣一 レオナルド・ダ・ヴィンチ研究家


第19回に続いて2度目のご登場となりました向川惣一さんは、レオナルド・ダ・ヴィンチ研究家として世界的な業績も挙げておられます。


http://www.tokyodoshuppan.com/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=978-4-490-20606-7  


注:論文集『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』《All about Leonard》


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写真 三木成夫


■ 学生の力を正しく評価する三木成夫

三木成夫は向川さんが東京藝大修士課程2年目の夏、修士論文を書いている最中に亡くなられました。

向川さんは、いちばん最後の弟子です。

手を拡げた人の臍の位置と、大きな円までのところに黄金分割になっている所が3箇所あること、そしてそれを著した書物が一冊もないことを、世界で最初に気づいたのが向川さんです。



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三木先生の言葉は、『僕は嬉しい』『向川君が見つけたことじゃなくて、日本人が見つけたことが嬉しい』でした。

「そのひと言を仰って下さったことが、先生が最初に認めてくれたことが、その後の苦労を苦労じゃなくしていますね」と仰る向川さんでした。

三木成夫の業績については、以下をご覧ください。


http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/2397/Miki-shogaitogyoseki_0.htm



■ 今も続く「三木シンポジウム」

藝大の学生達を中心とした「三木教徒」と呼ばれる人たちがいます。

いわゆるシンパが集って年に1回開かれるのが「三木シンポジウム」です。

最近、その会場で見られるのは、茂木健一郎や荒俣 宏ら。

彼らも三木成夫の業績と研究フィールドに非常に関心を寄せています。


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■ 東京藝大の駆け込み寺

藝大の学生からは、三木先生の診療室は駆け込み寺と言われていました。
在学中になくなる人が一番多いのが医学部と藝大だそうです。

藝大は音校と美校あわせても500人いない小人数の大学です。

毎年1人亡くなるというのは、たいへんなことです。

■ 医学部にも多い自殺者

医学部の場合、教養課程をクリアしたのち、実際の解剖がスタートした時期あたりが、危ないヤマなのだそうです。

それまでは勉強することに何の苦労も疑問もなく、自分でも優秀だと思い、やれば出来ると思っているような学生が、解剖という手作業で、自分の適性と限界を知ってしまうのです。

向川さんは言います。「適応できなくても止めてしまえる子はまだ強いんです。

ところが「親の期待、兄弟の期待、親戚一同の期待でもって国立大学の医学部へ入っちゃった子が、解剖が・・上手く適応できないと・・悩んでということが・・」

■ レオナルド・ダ・ヴィンチも書いています

画家に対する解剖書の中で『君、考えてみてくれたまえ、夜ひとり誰もいない部屋の中で、一人で解剖する。

ずっと集中して解剖しないと、それに耐えられる精神がないと、ここに私が残したような絵は描けないんだ』と。

その状況が学生に出てくるわけです。解剖は基本中の基本ですから、そこをクリアしないと知識の積み重ねは出来ません。

■ 「人間って弱い、非常に弱い、簡単に出ちゃう。」

将来やっていけないという、自信が無くなったときに、何かあると、例えば、失恋でもすると非常に簡単に死を選んでしまうのだそうです。

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向川さんは金沢大学の山田宗致先生(解剖学)のもとで5年間、解剖学を学んでいます。(因みに山田宗致と三木成夫は兄弟弟子です)

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■ 自殺者が激減

三木先生が東京藝大で講義されるようになってから、自殺者が“ごろっ”と減ったそうです。

以前なら自殺したような人たちが三木先生のところへ駆け込んできたのです。

東京藝大での授業風景についてもお話を伺いました。

■ 三木成夫の授業風景① ゲーテの原型論から

生物学の授業では「植物形態のメタモルフォーゼ」がとりあげられます。

学生達は植物の一生から、芸術の創造活動の根源がどこにあって、どういう表現が出て来て、どういうふうになるかを自分自身にあてはめて学びます。

卒業制作の自画像と、有名になった後の作品とを並べてみると学生達は分かると言います。

自分自身の美術の才と活動がどうなるか、何を一生懸命やらなくちゃならないのかが。

自分の力で掴んでいくヒントを、その授業から受け取るわけです。

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■ 授業風景②『胎児の世界』


―命というのはどういうものか、ということを考える授業―



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写真 「胎児の世界」授業はこの本の内容そのもの

この本には「人類の地球に生命が生れてから46億年の生命のロマンは、単に地球が、今日あるところまでの生命のロマンだけではなく、人間が人間として生れてくる受精の瞬間から、46億年の時間と同じことを、その面影を、母親の胎内、子宮の中で、受精卵から胎児になる。

赤子は生れる前に経験している」ということが書いてあります。


松岡正剛の語る「千夜千冊」より


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0217.html



向川さんによる解説の一部をご紹介します。



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―なぜ流産しやすいのか<魚から爬虫類へ>

向川:「多分、34日目がいちばん流産し易いはずなんです。

それは何なのか、ちょうどそれ以前の段階ではですね、胎児、赤ちゃんはまだ体がお魚の段階なんです」

「お魚の段階が34日目で、そこで両生類段階を急速に駆け上がって爬虫類になります。」

「お腹の中で、羊水の海の中にいたものが、陸上生活に適応するように体の 作り替えがおこなわれます。

それが一瞬の内におきます。


それが34日目、日にち、ちょっと間違えているかもしれませんけど、その1日で、その日のうちに全部終わります」


注:35日目から36日目にかけて
 
「で、その時期に重たいもの持ったり、階段から落っこちたりすると流産します」

(窒息死するわけだ! 何んらかのかたちで )

「そうです!そうです」

(34日目に陸に上がった魚か、それとも )

「海に落っこちた爬虫類か、どっちかの状態が起きるから、その時に窒息死する。だからその時が非常に大事なんです」

「学問としては、看護婦さんが習うような教え方では、妊娠34日目では、 胎児は、非常にアンバランスな状態ですから、流産し易いです、というような記述になります。そういう記述をいくら読んでも記憶に残りません。」

「ところが、そこのところを、上陸ですよ。そういう事を三木先生は授業で言っているもんだから、学生たちは絶対忘れません」。

「医学と関係ないんですよ、芸大の学生にしても。はぁーっていう、目が点になるような、命というのはどういうものか、ということを考える、そういう授業でね」

本日の参加者一同、目がテン状態でした。



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■ 授業風景③ 満席の階段教室、受講生には現役の医者たちも

向川さんが授業のスライド係を担当していた三木先生の授業は、いい席を取るために

始業前から階段教室がいっぱいになったそうです。

しかも最前列は「異様な集団」と表現される、東京医科歯科大などで三木先生から教えを受けた

現役のお医者さんたちが占めていました。


始業前に手描きされたという解剖図はチョーク1本で、プリントも見ないで描かれたそうです。

ダ・ヴィンチのような人物ですね。

保健管理センターのお医者さんとして週1回だけ担当していた三木成夫の授業は保健室登校のようなもの。

その授業ぶりは芸大始まって以来、最初で最後のものだったようです。
           

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三木成夫の経歴から、日本の解剖学の流れを伺いました。

■ 西 成甫の業績

ゲーテに始まり、ゲーゲンバウエルからヒュルブリンガーと連なるドイツの

近代解剖学(形態学)に学んだのが西 成甫です。


http://tojowww.dept.med.gunma-u.ac.jp/showa.pdf#search='http://tojowww.dept.med.gunmau.ac.jp/'

西 成甫―浦 良治―三木成夫・山田宗致、そして向川さんと続くはずでした
が・・・

日本の解剖学は「解体新書」の前野良沢、杉田玄白の時代から100年を経ずして、世界の解剖学のトップレベルになりました。その頂点となったのが、西 成甫です。



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写真 魚の段階から人間へ


■ 個体発生は系統発生をたどる

向川:「魚の頭と人間の頭は一緒ですよ、ね。それから、魚の尻尾と人間の尾てい骨は一緒ですよ、魚の胸ビレは人間の腕に相当します。それから、魚の腹ビレは人間の足に相当します」

「この事を、人間の体の筋肉で、どこが、どのかたちに、魚のどこの筋肉が人間のどの筋肉にかわったのか、というのを、系統的に全部明らかにしたのが、西 成甫先生の仕事、これは世界的な仕事なんです」


これは参考までに、母校に寄贈された西成甫の人骨標本


http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1998Portrait/02/02100.html




■ ヒュルブリンガーから可愛がられた西 成甫

西 成甫が、留学先のイェナ大学から帰国の際に、師ヒュルブリンガーから譲られたのは、ゲーテに始まる、ドイツ形態学の頂点の大学の、その先生方のいちばん大事にしていた、学問的な、遺品の数々でした。

■ 三木成夫の勲章

その遺品を、西 成甫が東大を退官するときに貰ったのが、そのとき学生だった三木成夫です。

『これは私にとっては大変な勲章なんだ』と三木は言っていたそうです。

向川さんも三木先生から“この本は君が人体比例の研究を終えるまで使っていなさい”と渡された本があったそうですが、先生がお亡くなりになったので返されたそうです。

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■ 形態学者としてのゲーテを知らない何人かの参加者(筆者を含む)のために、ゲーテ学の講義をしていただきました。(詳細は割愛)
 
■ 見直されてきたラマルク・ヘッケル
     
ダーウィンとの論争に敗れたラマルクが見直されています。ラマルク説をとる三木ですが、弟子西原克成の存在が国内外でも三木の評価を高めています。


http://www.nishihara-world.jp/


「顔の科学」「内臓が育てる心」「追いつめられた進化論」など

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■ 金沢とのゆかり

◇ 非常に良心的といわれる勁草書房は、金沢が創業の地です。

福音館書店も、創業は金沢です。


http://www.fukuinkan.co.jp/company/ayumi.html



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■ 向川さんご持参のおすすめ図書

◇ 三木成夫「胎児の世界」上述のとおりです。


◇ 養老孟司「解剖の時間」


◇ 西原克成「 」(東京医科歯科大で三木成夫に私淑)上述のとおり

◇ 小林英樹「ゴッホの遺言」と「ゴッホの手紙」(東京芸大時代に 〃  )

これは世界的な研究書で、もの凄い、いい本です、とのことです。



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今回のサロンも、講師と参加者との絶妙なやりとりで、たいへんな盛り上がりようでしたが、多くを割愛いたしました。

「自分が三木成夫の弟子だということを意識して、皆さんに話したことはないと思っていたんだけど・・どうして?」と仰る向川さんです。

実は、向川さんの手になる追悼文から、三木成夫の存在と「胎児の世界」を知った主宰者の独断と偏見で、今回の話題に取り上げさせていただきました。

(文責 中島)

幻の天守閣を思い浮かべて
―金沢「三階御櫓」の復元画をお披露目ー

以前に、このサロンでお話しいただいた末松 智さんの、その後を紹介します。


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金沢城・菱櫓の復元、築城のきっかけを作った末松さんは、その後も精力的に城内各所の復元画の作成に取り組んでいらっしゃいます。



それらの作品を石川国際交流サロンで展示、ギャラリートークで城への思いを語ってくださいました。


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写真 トークを楽しむ皆さん



ウィーン留学中に訪ねた数々の古城や石垣に、ますますそれらへの関心は強まっていきました。



加賀藩は、初期に焼失した天守閣の代用として三階御櫓を築きましたが、それも宝暦の大火で失いました。が、遺構が金沢城調査研究所によって確認されています。昭和44年にも金沢大学の調査隊によって発掘されています。



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写真 金大による調査風景

今回の復元画はそれらの資料が大きな支えになっています。もちろん残っていた絵図の存在に助けられたことは言うまでもありません。


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写真 三階御櫓復元画


苦心は、現存しない石垣の上に三層の櫓を築くことでした。先の調査の際に出土した根石の大きさを手がかりに、絵筆よりも計算機を手にする毎日でした。それは祈りにも似た日々だったそうです。

夜を徹して描いたという三階御櫓は、菱櫓より高いなまこ壁に、白い鉛の屋根
を、波うつ軒先の銅と、四方の隅柱の鉄の黒さが引き締める、なんとも優美な姿です。



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小さいけれど凝った造りの御櫓に、桜の古木を手前にあしらった美しい作品です。末松さんの思いの程がしのばれます。

26回ポットラックサロンにお越しいただいた県立歴史博物館の濱岡伸也さんは同世代。末松さんにとって大切な先達のお一人です。

ひとこと
―末松さんにとって金沢城とは? 「美人ですね」

第26回国際ポットラックサロン「新おもてなし考」 2007年11月7日(晴れ)

「歴史余談 金沢の町と城」 ―そこに住んでいた人々―

語り手 濱岡 伸也 さん 石川県立歴史博物館


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江戸時代の金沢―全国に誇ったのは、なんと「俳諧」だった江戸期の金沢を代表するものといえば、つい能や加賀友禅、漆器などを思い浮かべるのですが、実は日本中に名高かったのは「俳諧」だったそうです。



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写真 寺町の願念寺

松尾芭蕉が旅の途中に面会を熱望しながら直前に失った句友・小杉一笑の死を悼む句碑があります

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写真 句碑

江戸時代初期には農村にも貨幣経済がいきわたり、土地に縛られていたと思っていた人々も手続きさえ踏めば長期の不在も可能だったそうです。



 歴史についての、さまざまな思い込みが、芭蕉は幕府のスパイなどという説を生み出したのかもしれませんね。近頃、地元紙がさかんに書きたてている「金沢は城下町」というのも?マークがつくようです。


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金沢は城下町ではない!?必要なかったランドマーク

城下町の共通点のひとつは、大名行列が通過すること。どこからでも見える櫓や天守閣はランドマークでした。
「何様のお城下だぞ、心して通過せよ」という意味合いのものだったそうです。
尾張城や駿府城を思い浮かべてください。
金沢を通過する大名行列は大聖寺藩のみ。本藩に対してさほど遠慮もないし、加賀藩も気を使う必要が無かったのでランドマークは必要なかった。

天守閣の復元をという声が地元紙にも再々登場しますが、これは戦国の遺構というべきもので、時代は二の丸御殿に重きを置いたのでした。



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人口の7割はサムライたちー兼業農家が下支えいま1つは町の中に町人が少なかったことです。

人口の7割弱が武士とその関係者、町人は3割強しかいなかったことでした。
江戸との大きな違いでした。

それで町が成り立っていたかというと、城から1キロ四方の円の外から、お百姓さんたちが通いで奉公していたのだそうです。

つまり兼業農家は今に始まったことではなかったのでした。
町の中心部に、旅館・旅籠が殆ど無かったことは城下町とはいえない証拠のひとつだそうです。
おとなり、津幡の存在理由も浮かんできますね。



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「みんなが知っている江戸時代の金沢」は嘘

金沢検定に出題されたかどうかは知りませんが、市民が信じていることの多くが明治以降の、武家が姿を消して人口が激減した金沢を、かくありたいと思う気持ちから作られた説の数々だったようです。
(利家とそろばん、まつは良妻賢母だった、利長の器量、利常と珠姫、寺町は出城、幕府の隙を窺う加賀藩、鼻毛の利常、将軍家へ献上した氷、雑穀しか食べられなかった百姓etc)



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江戸時代全般についても落語「刻そば」や「長屋の花見」から時刻や物価の話など伺いました。
江戸時代の早い時期に上方では商業と文化が大いに栄えて、職人達が仕事帰りには「うどん」の一杯も買い食いするゆとりがあったことを知りました。

なかでも現代の民法は江戸時代の(ことに大坂の商家)慣習法がもとになっている事実からは、現代よりも成熟した社会であったことが伺えました。

教科書で習った江戸時代は士農工商でがんじがらめ、どちらかといえば武家による政治面にだけ光を当てていたように思えます。

歴史の常識とウソ、資料も一方向から見るのではなく色んな角度から見てほしい、というのが濱岡さんの結論でした。

歴史を学ぶに予断は禁物ということでしょうか



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写真 黒島天領祭り


余談その1

きょうの語り手、濱岡さんは3月25日午前9時42分マグニチュード6.5の地震が襲った能登、門前町黒島地区のご出身です。

震源地道下(とうげ)の目と鼻の先、黒島地区は北前船の寄港地として栄え、高度経済成長期まで多くの捕鯨船員や大型タンカーの船員を輩出した土地柄です。

ご実家は、冠婚葬祭時には襖を取り払うと6つの部屋が1つの部屋になったそうです。



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そんな家が多い地区には納屋や土蔵に特別の日のご膳などが仕舞われていました。

倒壊した母屋から被災を免れた家財を、納屋や土蔵に運び込むとそれらの諸道具を仕舞い切れず、やむなく手放しました。
マスコミからは「文化財を売った」、あるいは「便乗ゴミを出した」と叩かれたそうです。
北前船の寄港地である土地の人々の感覚では、誰かが持っていてくれれば、この物は無くならない、という思いが強くあるのです。

またシールを貼って集積所へ出しても道路は寸断、回収車はなかなか来ませんでした。

被害の程度は阪神淡路の震災よりも大きいのに、その実態が伝わらない悔しさ、行政も手立てがなく全てが後手後手に回りと、もどかしさばかりが先に立つという濱岡さんに、この地震体験は25年勤めた歴史博物館での物の見方、考え方をがらっと変えさせたそうです。



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余談その2

以前、このサロンに登場してくださった松田章一さんの戯曲「芭蕉落枝舎日記」にも、野沢凡兆という金沢出身の人物が芭蕉の手足として登場しております。 

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第24回の語り手・富山市の加藤さんも交えてのサロンは、的を射た質問の数々にたいへん盛り上がりました。

「歴史がこんなに面白いものだったなんて」とは参加者がこもごも口にした言葉でした。

機会があれば「富山はもっと面白いです」とおっしゃる濱岡さんをもう一度サロンにお呼びしたいものです。 


◎留用日本人が果たした日中国交回復の裏側◎

新・おもてなし考では初期に開かれた第4回のポットラックサロン(2005年9月
「留用日本人の娘が語る日中国交回復の裏側」の後日譚です。



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お父様が、旧満鉄社員で鉱山技術者だった高沢明子さん(旧姓北村)は、日本の敗戦後も当時の中国共産党から撫順鉱山で炭坑開発に残るよう命じられ、戦後9年間も中国暮らしをした経験をお持ちです。

今で言うところの「帰国子女」のはしりですが、国交がなく、社会体制も違う日中間では、帰国後の社会順応など大変だったと思われます。



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しかし、田中角栄時代に日中国交回復がなり、現在の福田総理の父である福田赳夫時代には当時の最高実力者、鄧小平が来日した影には、日中平和条約締結に尽力した高沢さんの弟(北村博昭)さんが深く関わっていたと言うことです。



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(当時の園田外相と北村博昭氏)

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(条約秘話を綴った「忘れ難き歳月」より)


中国のことわざに「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れない」という言葉がありますが、(「飲水思源」というらしい)日中国交正常化後も、周恩来首相の言葉として良く引用されていましたね。



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◆後に立っている少女が当時の明子さん◆

最近、北村家(高沢さんの家族)の写真が載せられた撫順の新聞が高沢さんの当時の友人たちから送られてきたそうです。(1945年8月~1954年9月)


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内容は、「中国共産党の胸中と、日本の専門家の心意気が人民中国の建国時に果たした役割は偉大だった」というようなことが記されているのだそうです。

お父様の北村義夫さんが果たした功績と家族の生活の様子についても報じられています。



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この新聞を受け取った高沢明子さんは「中国を離れて既に53年経ちますが、今、改めて父の仕事や私たち家族について大きく報道して頂き、感動しています」と話していました。

長女 高澤明子(北村)談

「我的家族離開中国己経五十三年了 直到今日又以巨大篇幅報道了
父親当年曽做過的工作及我家族的生活状況對比 我深受感動!」


第25回国際ポットラックサロン「新おもてなし考」 
2007年10月3日(晴れ)

―ジョロウグモの世界―  

語り手 徳本 洋さん 


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ここ数年、なにかと話題の異常気象。そのせいか我が家でも蜘蛛が大発生というメンバーの声からスパイダーマン・徳本さんにお越しいただきました。

ここ国際交流サロンは美しい庭でも有名です。そして、ここに網をはっているジョロウグモが数匹いました。


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サロンの庭で



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まず、この庭での観察から始まって、どこでもみられるジョロウグモを材料に、自然界の不思議の数々を教えていただきました。



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ジョロウグモ 徳本さん撮影

メスの網の中にこんなに小さなオスが何匹も入り込んでいることを、初めて知って参加者の驚いたのなんのって。性フェロモンのなせる業だそうです。


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網の糸はみな粘る糸ばかりでできていると思っていましたが、粘るのは網の横糸だけで、他の糸はまったく粘らないそうです。

一度さわってみてください。

「クモの糸は地球上に存在する繊維の中では最強のもので、クモの糸の合成に人類が成功し、もっと太いクモの糸をつくれるようになれば、いかなる金属よりも強く、最強の繊維といわれるナイロン繊維よりさらに強い繊維を手に入れることになる」

自然界の不思議に、芥川の「蜘蛛の糸」を連想したり、ただただ驚いたり感心したりの参加者一同でした。



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次々と出る質問に、徳本さんはジョロウグモの先祖がネパールに源をもつことから地球の古い歴史から掘り起こして解説してくださるなど、どの質問にも丁寧に説明してくださいました。

学生時代に昆虫を選ぶ仲間たちとは違う分野をと、蜘蛛の世界に踏み込んだ徳本さんですが、この世界は少数派。だからこそ責任がある、それゆえ好い加減な返事はできないと毎日が研鑽の日々です。


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英語の専門書もときどき読んでおられるそうです。地質学の勉強も数年前から始められたと聞いて参加者一同も、勉強に年齢はないと改めて思ったしだいです。

知識の連鎖は止まるところを知らず、気が付けば初秋の日は傾いておりました。

※ ブログには今回も多くを割愛しました。皆さまのご参加をお待ちします。



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