こんにちは では…
 
三千世間を一念現していただいております、
読者の方に
 
秘密の奥蔵を
観念していただきます。
円教といいます、教えですが、事と理が完全に融通した完全無欠の教えです。
 
宇宙法界全体の事相、万物のありのままの相を具体的に表現しておりますのが事で、
その内容に含まれている本質的な理性を理といいます。
諸法流転の差別の相を事、平等の本体を理といいます。
哲学の上では、研究されている「現象と実在」の徹底観でもあります。
 
物事や事象は本来、空である。このこころを空諦といいます。
 
それから、物事や事象は本来、仮の姿(相)である。このこころを仮諦といいます。
つまり、仮の姿が今生きている姿であり、いつかは、死すなわち、空になる。しかし、死も仮諦であり、生きている姿も空なのである、
このこころが中です。中諦といいます。この三諦を空、仮、中の三諦といい、三ではなくて…一諦なのだと…しかし、一諦ではなくて三諦なのだと釈尊は悟り、この法則は私たちにも備わり、そのように全てが事を運んでいるのだというのです。
つまり、家がある、仮諦であり、火事になり、燃える、空諦であり燃えると家ではなくなり炭になる、仮諦であり、家は空諦になる。これを、中諦といい、家に空、仮、中の姿が備わっておるというのです。
 
お分かりいただけましたか?
 
この法則こそが、一念三千であり、理である。
はたして、事の一念三千とは南無妙法蓮華経「本尊即ち曼荼羅」であり、提目といって唱える声であり、唱える私達のこころであるのです。
 
この意に立ち返る瞬間を観念と呼び、じつは…輪廻を経験して
観念が終わるのと同時に転生しているのだと。
普段何気なく、変わらないと思っている物事や姿はじつは…私達の一念(こころ)に因って、輪廻を経験して転生しているのだと…
ここまでが個人の輪廻転生と定義し仏教では、随自意と呼び(法華経である)ます。さて、社会の輪廻も大きく括りますが、同じく輪廻をします。しかし、随他意といい、大乗経と呼びます。ですが…法華経のような観念はなく、自然の草木が実をつけては、風により、大地に落ち、種が土中に雨によって入り育つ、やがて芽が出て以前の草木の姿がまた再生するというような一切自然智という誰かに教えられずに働いている力をいい、これを仏のこころとは呼ばず、菩薩と呼びます。 
 
続きは次回に予定しております。
 
☆何に転生するか、その方法も予定しております。
 
*公開会話士さんのブログで一週間の曜日の話題があり、軽くコメするならば、一週間の七曜の起源は古く、日曜日は日神、月曜日は月神、その他の曜日は仏教の五行に由来しております。♪
 
こんにちは では…
 
三千世間を一念現していただいております、
読者の方に
 
秘密の奥蔵を
観念していただきます。
円教といいます、教えですが、事と理が完全に融通した完全無欠の教えです。
 
宇宙法界全体の事相、万物のありのままの相を具体的に表現しておりますのが事で、
その内容に含まれている本質的な理性を理いいます。
諸法流転の差別の相を事、平等の本体を理といいます。
哲学の上では、研究されている「現象と実在」の徹底観でもあります。
元来、この両面は一体不二の関係にあり、理の中に事があり、事の中に理があり、すみずみまでいきわたっている有り様を「事理円融」というのです。
聖文によって、その一端を述べたいと思います。
 
。この十界が互いに活動し変化する状態には十種の法則があり、これを十如是といいます。「如是」というのは実相の理という意味で法華経第二の方便品に説かれており、本尊のブログの次に載せてありますので、参照下さい…
 
1相…外観の相、2性…内的自性 本質、3体…主体 本体、4力…潜在する活動力 能力、5作…外的に起こす作用、6因…外的に作用を起こす原因となるもの、内的原因 7 縁…その因に与える外的な条件、外的助縁 8 果…原因と縁によって現される結果 内的成果9報…これに伴う報い
10本末究竟等…宇宙法界の万物は種々差別の相を顕しているがそれは因縁による果報の姿であって元を質(ただ)せば、皆公平にして平等な原素によって形成されているというのです。
 
。本日はここまでにします…でゎ…また更新します。
 
*もうお読みいただいております、あなたの一念がすでに世界を作っている事を自覚なさって下さいね
こんにちは では…
 
三千世間を一念現していただいております、
読者の方に
 
秘密の奥蔵を
観念していただきます。
円教といいます、教えですが、事と理が完全に融通した完全無欠の教えです。
 
宇宙法界全体の事相、万物のありのままの相を具体的に表現しておりますのが事で、
その内容に含まれている本質的な理性を理いいます。
諸法流転の差別の相を事、平等の本体を理といいます。
哲学の上では、研究されている「現象と実在」の徹底観でもあります。
元来、この両面は一体不二の関係にあり、理の中に事があり、事の中に理があり、すみずみまでいきわたっている有り様を「事理円融」というのです。
聖文によって、その一端を述べたいと思います。
 
…涅槃経の「一見四水」という説法にこれは一つの水を人は水とみますが、餓鬼の世界に心がある方はこれを火と見、魚(畜生の世界)は住みかと見、天人は(天の世界)これを甘露と見るということです。ひとつの事物でありながら、それを見る者の環境あるいは性質によって、その眼力の違いから様々な見方に変わるのです。
 
天地法界もまたこの通りであって、見る者の眼力によって種々様々に違って見えるのです。
「如来」は法界をどのように逹観なされたのでしょうか。
それはまず先に述べた十種類の世界を一層深く詳察され、私共の一身には仏にも餓鬼にもなりえる性質を潜在具有していると説かれています。すなわち十種の世界に各界にそれぞれ十種の世界を相互いに備えていると観るのです。例えば、極悪非道の大悪人にもその内心には菩薩界もあり、また徳行の善人にもその内面には修羅界もあれば地獄界も潜在具有しているのであって各界はそれぞれ孤立しているのではなくて、互いに融和し十界のそれぞれにまた十界が備わっているのであり、これを十界互具といいます。
 
今日はここまでの更新です。
 
また更新します。
 
アメ~バさんのメンテで掲載の遅れをお詫びいたします。