先週24日(火)に兄嫁の父親が亡くなり午前10時30分からの告別式に参列するため、一昨日は午前4時30分に起きて5時30分に家を出て甲府へ。水曜日に兄から突然の訃報の知らせを受け・・・まだ亡くなった原因がわからず、「なぜ?」 との思いが心によぎる。兄が結婚してからず~と9月には「葡萄」を11月には「石和の柿」を送って下さり、こちらからもお礼の品物を送り・・・、それぞれの品物が届くたびに電話でのお礼の会話での交流で今年も今月4日にお話ししたばかりでした。昨年母が亡くなって一人になった私を気遣って下さり、「気を付けて下さいね!」の言葉が心に残っています。
告別式に参列する中で知ることができたこととして、お父様は55歳から塾経営を始められ、以後30年間にわたって最後まで生涯現役で子供たちと関わり、亡くなった時も教えている時に体調が悪くなり、救急車が来た時にはもうすでに息を引き取っていたそうです。ご家族や親族の方々とお別れする暇(いとま)もなく最後を迎えたお父様。亡くなられた知らせを受けてからお父様のことを黙想しながら・・・「毎年送られてくる年賀状通り(⇒ 余計なことは書かない)の最後だったのかもしれない」とそのような思いになってきました。
ご家庭では寡黙だったようですが、子供たちと接するときは違う面を見せておられたようです。そして、お通夜にはかつての教え子たちが亡くなったことを聞きつけて参列したとも聞きました。子供たちに良い感化を与えて生涯を全うされたことを思いながら、帰りの車窓から雪化粧した富士山と紅葉が進んできた山梨の山々を見ながらゆっくりと帰途に着きました。「長い間、おいしい葡萄と柿ありがとうございました。電話口から聞こえてくる魅力ある低音の声の響き、忘れません!」そのような気持ちで一杯です。
私たちは、いつ、どこで、どのように自らの最後を迎えるかわかりません。以前、「中断される人生」というキリスト教の立場から書かれたテーマの本を読んだことがありますが、この本は、「自ら中断することによって中断されることを学ぶ」という趣旨のものです。キリスト教の枠を越えてこのテーマを考えてみる時・・・、与えられている日々の生活と時間のどこかで「立ち止まり」、自分自身のことを振り返ったり、取り組んでいることを客観的に見つめ直したり、大切な家族や親しい友人のことを考えたり思ったりすることの大切さであり、かつて取り上げた「別れる練習をしながら生きよう!」ということにつながるように思うのです。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」(詩編90編12節)