甚目寺(じもくじ)は、愛知県あま市(旧・海部郡甚目寺町)にある真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。鎮守として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったが、神仏分離令の後、境内を分けた。所在していた甚目寺町の名は、当寺によっている。
通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれることが多い。本尊は聖観音。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、本堂に安置される十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)の胎内仏である。東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。尾張四観音の一つである。大須観音から見て丁(亥と子の間)の方角にあり、丁壬の方角が恵方にあたる年(丁・壬の年、最近は2007年、2012年)の節分は、大変賑わう。
伝承によれば、推古天皇5年(597年)[1]、伊勢国[2]の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、これは、「波陀米泥良」と書いた。「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。言い伝えでは、創建の経緯は以上の通りだが、実際、その歴史は奈良時代以前に遡ることができる、という仏教考古学者である石田茂作の研究もある。
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したという。このことから、甚目寺は、勅願寺となった。鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたと伝わる[3]。戦国時代には、織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した[4]。その他、豊臣秀吉から160石、徳川義直から300石の寄進があった[5]。
沿革
597年(推古天皇5年) - 創建。
679年(天武天皇7年) - 寺堂が整えられ、鳳凰山の山号を受けた[6]。
853年(仁寿3年)8月8日 - 工事で堂宇を建立するが、一時衰退した。
1103年(康和5年) - 藤原連長や僧智能、大江重房らの力によって再興された。
1124年(天治元年) - 地震で被害を受ける。
1126年(大治元年) - 大江為道とその女、長谷部氏が、復興につくした。
1196年(建久7年) - 源頼朝の命により、南大門の再建が行われる。
1201年(建仁元年) - 聖観上人が勧進、再興した[7]。
1586年(天正13年) - 天正地震による被害を受ける。これを復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねた、という。このとき、本堂を再建し、仁王門の大規模な修繕がなされた。
1627年(寛永4年) - 三重塔の再建が行われる。
1634年(寛永11年) - 東門の再建が行われる。
1644年 (正保年間) - 仁王門の修理が行われる。
1873年(明治6年)7月19日 - 本堂が全焼するなどの被害を出した火災が起こる。
1875年(明治8年) - 仮の本堂を建築した。
1891年(明治24年) - 濃尾地震による造営物の倒壊、破損があった。
1992年(平成4年) - 本堂が再建された。







龍照院(りゅうしょういん)は、愛知県海部郡蟹江町にある真言宗智山派の寺院。本尊は十一面観音菩薩。例祭として須成祭を行う冨吉建速神社・八剱社に隣接している。JR関西本線蟹江駅から徒歩約15分。
中世以前
『尾張誌』(1846年完成)によると天平5年(733年)に行基が創建したという[1]。 その後鎌倉時代の寿永元年(1182年)、木曽義仲が七堂伽藍と十八坊を建立し、その中央に蟹江山常楽寺を置いたとされ[2]、常楽寺には本尊として十一面観音菩薩を安置し、栂尾(とがのお)の明恵上人を中興開山としたという[2]。ただし、以上の創建、再建、中興開山に係る記述の真偽については諸説ある[1]。当時の常楽寺境内は24町歩(7万2000坪)、寺領は76町歩(30万坪)もあったが、天正12年(1583年)に羽柴軍と織田・徳川軍が戦った蟹江城合戦の際には、龍照院と鎮守(冨吉建速神社・八剱社)を残し、兵火のために灰燼に帰した[2]。
近世・近代
寛文12年(1672年)完成の『寛文村々覚書』や宝暦2年(1752年)完成の『張州府志』には龍照院が掲載されており、当時は真言宗名古屋大須宝生院(大須観音)の一派に属していた[3]。
天明3年(1783年)には龍照院に寺子屋が開かれ、多くの子女が通ったという[2]。明治初期には神仏分離令(廃仏毀釈運動)や寺領上地令などにより、境内や寺領は大幅に縮小され、境内は常燈を備えるのみとなった[2]。
1891年(明治24年)の濃尾地震では本堂・客殿・庫裡などが全て倒壊した[2]。第68世の政覚和尚、第69世の政隆和尚のときに、本堂・客殿・庫裡・経堂・鐘楼・大日堂・地蔵堂などが建てられて復興した[2]。
現代
1931年(昭和6年)12月には本尊の十一面観音菩薩が旧国宝(現在の重要文化財に相当)に指定された[4]。
第70世の政運和尚の時代の1972年(昭和47年)には、文化庁の要望を受けて収蔵庫が完成し、現在の本尊は収蔵庫に安置されている[4]。
1993年(平成5年)11月に名古屋市博物館で開催された「東海百観音名宝展」のポスターや記念誌の表紙には、龍照院の十一面観音菩薩の写真が使用された[4]。第71世の静顕和尚の時代の1993年(平成5年)11月には、客殿・集会室・庫裡が新築された[4]。






冨吉建速神社・八劔社(とみよしたけはやじんじゃ・はちけんしゃ)は、愛知県海部郡蟹江町大字須成にある2つの神社。2社を合わせて須成神社(すなりじんじゃ)とも呼ばれる。旧社格は郷社。
主祭神
冨吉建速神社 - 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
八劔社 - 草薙神霊(くさなぎのしんれい)
この神社は天平5年(733年)に行基の勧請によって創建されたとされ、寿永元年(1182年)には源義仲(木曽義仲)が再建したとされるが、その真偽は定かでない。中世以降にはこの神社が富吉荘(現在の蟹江町周辺)の総氏神であった。室町時代後期の天文17年(1548年)には織田信長が社殿を修復したとされるが、その真偽は定かでない[1]。豊臣秀吉や徳川家康などが参拝し、この神社に寄進を行っている。
かつての冨吉建速神社は牛頭天王社(単に天王社、天王とも)と呼ばれており[1]、慶長19年(1614年)から長らく牛頭天王社という表記だった[1]。弘化3年(1846年)に完成した『尾張志』には牛頭天王社も登場し、八劔社は牛頭天王社の末社という扱いだった[1]。
しかし明治期に国家神道を推し進める中で、仏教の天部神である牛頭天王は好ましくないとされたため、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祭神として牛頭天王社から冨吉建速神社に改称した[1]。1872年(明治5年)の『第八拾五区海東郡社寺調』では、須成村の鎮守として八劔社が記され、八劔社の境内に冨吉建速神社があるとされている[1]。1953年(昭和28年)3月31日には冨吉建速神社の本殿と八劔社の本殿がそれぞれ重要文化財に指定された[1]。

津島神社(つしまじんじゃ)は、愛知県津島市にある神社である。社格は国幣小社で、現在は神社本庁包括の別表神社。
建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀る。当社は東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という。
中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていた。
社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。
弘仁9年(810年)に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、正暦年間(990年~994年)には一条天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる。しかし、延喜式神名帳には記載されておらず、国史にも現れない。
年代が明確な史料では、承安5年(1175年)の名古屋七寺蔵・大般若経奥書に名前が見えるのが最初であり、実際には藤原摂関時代の創建と見られる。国内神名帳考異稿(元本・貞治年本国帳:南北朝)には、貞治本にはその名前が見えず、元亀本他に依拠するとする。正一位上 津嶋牛頭天王。
東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。江戸時代には尾張藩主より1293石の神領を認められ、後に幕府公認の朱印地となった。厄除けの神とされる牛頭天王を祀ることから、東海地方や東日本を中心に信仰を集め、各地に分社が作られた。津島市の市名はこの津島神社の門前町が発祥である。
明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたが、いまも「津島の天王さま」と呼ばれ、全国約3000社の天王信仰の総本社である[1]。
明治6年(1873年)に県社に列格し、大正15年(1926年)に国幣小社に昇格した。神社のすぐそばに天王川公園がある。公園の中央には楕円形の池があるが、これは、江戸時代まで町の中を流れていた佐屋川が木曽三川分流工事のさい、洪水対策で廃川となり、その支流・天王川もせき止められたものである。牛頭天王は排斥されたが、神社の祭りは尾張津島天王祭として、今も「天王」の名が残っている。

当尾張藩主徳川宗春公が時の幕府の倹約令に背き 庶民に産業文化の開発を奨励されたのが始まりで 津島神社神事「茅ノ輪くぐり」に使われる 茅ノ輪を型どったものであり馬のくつわに形が 似ていてることから名がついたと言われている。 茅の輪とは神代の昔、須佐乃男尊が小さな茅の輪を 疫病除けとして、腰につけたと伝えられる。 「くつわは、餅米とうるち米の粉で団子としこれを 蒸し上げ砂糖とゴマを混ぜ合わせ菜種油で揚げたものなり」 爾来、諸国約三千社ある津島神社総本社の 歴史ある神饌菓として今日まで一つ一つ丁重に 手作りされる津島の銘菓である。
あかだ平安時代から続く疫病除け
あかだは古く平安時代に遡る。 弘法大師が中国での修行を終え 日本に帰国し、 仏教布教のため全国行脚の途につかれ 当地津島神社に 参詣の折 、疫病が流行していたので悪疫退散の祈願を つとめた。津島神社の供米をもとに米団子の油揚げを作り これを神前に供えて、参詣の人々に分け与えたところ たちどころに疫病が治ったと云われる。 津島神社春秋縣祭りの際 神前の供米を申し受け これを製し縣団子と称し 「諸人これを乞うて食すれば その年疫病に罹らず」との伝えがある。 あかだとは、梵語にて無病息災の意があり 阿伽陀と称し それが あかだの名称となったとも伝えられている。 爾来、諸国約三千社ある津島神社総本社の歴史ある 神饌菓として伝承される津島の銘菓である。
店内をのぞくと、店主なのか隠居したのか分からないお爺さんが出てきて、30分くらい昔ながらの製法と、メディアへの掲載記事について大変熱く語ってくださりました。他では見かけない商品であり、興味深く聞かせて頂きました。
あがたは他店は今では油で揚げるようになったそうですが、ここは唯一、油で揚げずに昔ながらの製法を守っており、長時間かけて鍋で炒って作るのだそうです。石のように固く、サーターアンダギーの砂糖と水分を完全に抜いたような、固いお菓子です。電気もなく徒歩や馬で移動していた昔、このお菓子は手軽な保存食として重宝されたことでしょう。
お店を出る頃には、辺りはすっかり真っ暗で、帰路につきました。
おしまい




















