◇『モンティ・パイソン正伝』読書ノート



しまむらのブログ-モンティ


もう5年くらい前?に買ったモンティ・パイソンのメンバーの証言本。
各メンバーの幼少時代のコメントから制作秘話まで書かれている。
コメディの偉大なる達成がの生まれる過程のメンバー達本人の精緻な分析になっている。
宮沢章夫の解説に、彼らの偉大なコメディを生んだ彼らの『精神』についての言及があるが、
その『精神』とはいかなるものかが表現されている。
ものを作る人必読の書である。

以下、ノート


JC:ジョン・クリーズ
GC:グレアム・チャップマン
EI:エリック・アイドル
MP:マイケル・ペイリン
TJ:テリー・ジョーンズ
TG:テリー・ギリアム


□TJ:僕は誌のようなコメディが好きだ。
ブラウニングは、「二つの異なるアイディアが出会うところに生まれるのは、単なる第三のアイディアではなく、ある種のひらめきである」といっている。
(中略)そのアイディアがどこから同時に出てきたか、観客に隠しておくことが出来ればなおいい。
□MP:しょせん、人間の洗練された振る舞いなんて、紙のように薄くしか身にはつかないのだと思う。
□JC:ビヨンド・ザ・フリンジが優れていたのは、全員が全員で様々組み合わせで舞台にあがれた点だ。(モンティ・パイソンとも共通するだろう。)
□EI:僕はほとんど直感だけで演技をする。理屈ではほとんど考えない。
自分にはそういう能力があると知っているだけで、一体それはどういうことか、またどこからその能力をもらってきたなどは全く知らない。
□JC:自分で「きつい台詞」と呼んでいたその手のアイディアを書けば書くほど、どんどん受けるようになっていった。要するに、チャップマンと自分が笑えるものならば、実は観客も笑うのだ。
□JC:グレアムの真価とは、口数こそ少ないものの、ある物事をまったく新しい視点から見るきっかけを与えることが非常に優れていることにあった。
□JC:グレアムは正確なリトマス試験紙であった。グレアムが面白いということは間違いなく面白い。
□MP:演技はコインの裏側にあるのだと思う。僕は作家だけで終わる気はなくて、何かを書くたびに、「これは自分で演るのが一番うまくいくに決まっている」という気がしていた。
□JC:スケッチをめぐって時折激しい口論になることがあったが、しかし、面白いことに、それは内容そのものについてであって、それを誰が演じるかということでは、一度も争ったことがない。
役者として我々は、これは誰が演じれば一番効果的かということが、いつも直感でわかっていたからだ。
□MP:面白いことを聞かされたとき、嘘の反応をすることは出来ない。それは笑えるか笑えないかだ。
□MP:とにかく、あの頃は絶対に聞き手を退屈させるなという不文律があり、もし自分が読み聞かせているものが退屈らしいと気づいたら、聞き手の注意をそらさないように即座に考えて作っていかなければならない。
□EI:意見がどうしても合わなくて行き詰ってしまったときにも、どこからか抜け道がふと魔法のように開けて違う方法が見えてきて袋小路から脱出してしまう。それぞれの頭のもとで欠点を発見出来る目とそれを正す腕を養ってきたからこそ、パイソンはあれほど質が高くなったのだと思う。
□MP:これを作る間はビジネスライクに徹していた。
□EI:出演者はいつも同じなのに、書かれているスタイルが常に変わり続けているから、裏打ちしている感性がいつも違っていて、あれは面白いと思う。
□GC:人間とは、コメディアンは特に、大衆の笑いだけではなく、大衆が媚びることも実は望んでいる。
□JC:人生のいかなる時点においても、自分のやることを変えよう、違う方向に行こうとするならば、自分のまわりに築き上げられているシステムを発見すること、じぶんを変えさせまいとしているまわりの環境に気づくことが必要になる。
□JC:少数の人々が非常に強く、嫌悪感を示す場面とは、たいがい多くの観客が一番笑う場面になる。
□MP:パイソン流の書き方には、いくつかの決まったルールがある。「自分たちが『世界最高のドラマ脚本家集団である』というフリをするべからず」というのがその一つだ。

メモはまた続く。


ちなみに、僕が好きなパイソンはジョン・クリーズ。
書くネタの方向性も好き。
しかし、一番すきなのはその演技。
「本人は笑わず、ふてぶてしい表情で必殺のギャグを放ち続ける」という、僕の一番好きなスタイルの一つの達成ではないかと思う。

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◇ゴダールシンポジウム@早稲田大学小野梓記念講堂




入場無料にて宮沢章夫、大谷能生、佐々木敦、桜井圭介の講演が聞けたすばらしいイベント!


以下、メモ。






【『アワーミュージック』上映】






【大谷能生×桜井圭介】


■大谷能生


□ゴダールにおける音


2つの音が結びついて1つの世界を形成するように聞こえること、


そこに調性が介在し、旋律を感じる可能性が生じる


⇒単線的に把握しようとする力→物語


※ゴダールにおいては音においても単純に捉えられない。




□アワーミュージックの構造


ダンテの『神曲:地獄篇』を下敷きとした構成。



「王国1」、「王国2」、「王国3」の構成毎に3つの編集モード手法。




王国1:誰がどういう視点で見ている映像なのか判別できない。


⇒無人称的。


映像についていた音が、映像から剥奪されてしまっていること。




王国2:視点を滑らかに誘導してくれない映像としての「アワーミュージック」。


ゴダールと一番異なる映像としての、「ゲーム」の映像。 


「映像をメロディックにつないでいく」という意味でのメロドラマ。=見てほしいところを強調していくこと。




王国3:ここでのみ、オルガを中心にメロディックに映像が動く。


・視点が変わらない。


・ラインを切らない。


・見るべきポイントが分かりやすい。




□「One Plus One」


映像と音の対応関係は1対1ではない。


目と耳という受容器官の違い。


受容、処理するデータの違い。




□ゴダールはサイレントを撮っていないし、これからも撮らないだろう。


⇒ものごごろついたときから、映画は『しゃべっていた』世代、サイレント時代を経験していない世代としてのヌーヴェル・ヴァーグ。






■桜井圭介


□ゴダールの映画をコンテンポラリーダンスとして見てみること。


⇒ゴダールをコンテンポラリーダンスの起源としてみる。




□ピナ・バウシュとの共通点


動作をコンテクストからはずして、生の身体を見せていくこと。




□劇映画のフレームから逸脱していくことで、


生の体を表出させる。


⇒「日常的なモード」からの逸脱


→「生」の表出、リアル→ダンス




□ゴダールの映画に特徴的なキャラクターの行動


・キョドる人


・走る人


・追う人


・逃げる人


・撃たれて死ぬ人


のコンテンポラリーダンスらしさ。




□アンナ・カレーリナの「のけぞり」の多さ


⇒誇張のある大げさなアクション






■大谷能生×桜井圭介 対談


□ゴダールの画面に対する圧力のかけ方


・80年代以前:アクション映画、B級映画の手法


・80年代以降:ベートーヴェン、古典クラシック、シェークスピア


⇒上記を、フレームとして設定してしまった上で、そこから逸脱していくこと。




□画面のダブルエクスプロージャー


動いているのが二重写しになってしまう。


二重の意味づけがされてしまう。


⇒見ているこちらの記憶を呼び込んでしまう。




□ゴダール映画に特徴的な身体


⇒全員ヒステリー状態、前ヒステリー状態に見える。




□ピナ・バウシュとポスト・モダンダンスの違い


ピナ・バウシュの身体はコンテクストから外されてはいるが、動きによるエモーションが付与されている。


⇒二重に意味を読み取ってしまう。




□キシェロフスキー的な『キレる』につながることはアブない。。。


ニブロール・・・。


「情念的なもの」⇔「ゴダールの知性」






【宮沢章夫×佐々木敦】


■宮沢章夫


□ゴダールの車への偏愛


「気狂いピエロ」、「勝手にしやがれ」、「WEEKEND」、「勝手に逃げろ、人生」、「右側に気をつけろ」




□「喜劇映画は引き絵がなければダメだ」


⇒喜劇映画作家としてのゴダール




□ゴダール、その都市性と空間性と


・フィクションの美しい町→「ニュータウン」


・ドキュメンタリーの「パレスチナ」




□「あのこと」


ゴダールの一時期のパレスチナへのコミット


『アワーミュージック』は現在のゴダールからの「あのこと」への回答


カール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」→「男と女のいる鋪道」


ジャンヌ ナナ オルガ の40年ごとのタイミング






■佐々木敦


□『フレディ・ビアシェへの手紙』




□「ソニマージュ」


⇒音と映像をいかにつなぐかの実験の時代


『フレディ・ビアシェへの手紙』の中で一番表れている考え方




□「3つ目のゴダール」


二項対立ではなく、「あるものとあるものの間」を設定することで、「3つ目のゴダール」が表れる。


・突然スローモーションになる


・突然ストップモーションになる


⇒『映像の間』的なもの




「One Plus One」の監督か、「3」の監督か




□90年代のJLG映画には、ほとんど本人が出てくるようになる。


JLGによるJLG




□90年代後半からのJLG


・映画を問う


・映画の構成要素としてのソニマージュを問う


・映画を撮っている自分自身を問う




大文字としての歴史を以下に扱うか




□「撮られたもの」としての歴史=映像に現在を反映させることは出来るのか






■宮沢章夫×佐々木敦 対談




□創作者が創作をし続けていることで感じられる力




□20代の暴走的な創作⇒それ以降の落ち着いてきた頃の創作


その頃のゴダールに気づかされることがある。




□「アワーミュージック」のパロディめいた政治性との違い




□どうやって歴史・誠治を語るかで生じる「口ごもり」=魅力


・ゴダール:「頭をぶつける」的な・道化的な振る舞い、「F-1カーを意味なく画面に出しちゃう」


・宮沢章夫:「分からないまま語っちゃった」(ニュータウン入り口)


「ニュータウン」と「パレスチナ」の共通性


・いとうせいこう:「口ごもっている場合か」という直接的なかかわり方⇒「いとうせいこう」という「特別な身体」 




□直線的ではない意識をどうやって映画(=リニアなもの)に定着させるか、という手法の提示




□ゴダール映画に出てきた監督


サミュエル・フラー(『気狂いピエロ』)


フリッツ・ラング(『ゴダールの軽蔑』)


ウディ・アレン




□ジャン・ポール・ベルモンドという特別な身体


⇒ヌーヴェル・ヴァーグを成立させていた「でたらめさ」


⇒ゴダールはその時代、その時代に合う身体を探した。


「若さの模倣」に陥らないこと


 




非常に興味深い内容の話がいっぱい聞けたが、


・いとうせいこう=身体性の薄い芸人 ではなく、ダイレクトに大文字を語れる、語っていい特別な身体としてのいとうせいこう、


という視点に結構はっとした。






べつの方のノート


宮沢章夫さんのブログ