先日、友人と美術館へ行ってきた。

 

その友人とは、大学の講義で運よく隣の席同士になり、

 

仲良くなった女性だ。

 

個人的に言えば、

 

ショートヘアーで、ワンピースの似合う彼女の姿は、

 

日本人女性に見られる特有の健気さと、時代に左右されない

 

知的さを彷彿とさせると思う。

 

そして、

 

外見主義国家でも十分と戦える美貌と、

 

愛くるしさを持っているはずなのに、

 

そっちの世界にはまるで無関心かのように振る舞う彼女に

 

私は疑念を抱きながらも、魅了されてしまう。

 

だが、会うたびに彼女を神秘化するのは、

 

見目よろしくない。

 

崇拝するかのように、彼女の一文一句を聞き入れては、

 

誰かに自分のコンプレックスを指摘されたかのような感覚に襲われ、

 

生物としての自信を失っている私の姿は、

 

自分でも痛々しく思えてきてならない。

 

いかに私が彼女に対して挙動不審かどいうか

 

伝わったと思うのだが、(笑)

 

学術的な話になると、さらにこれが強調されるようにして

 

思わない。

 

ただ、これは嫌というわけではなく、

 

単純に自分の弱さと、向き合ってきたことがなかった、

 

私にとって、今がその時なのだと思う。

 

だからと言って、キリスト教の隣人愛や、

 

仏教の他力などの外的要因に、

 

身を委ねるのも違う気がして、

 

色々と考えた結果、結局何をしたら良いのかわからない

 

状況に後戻りしてしまっている。

 

まるで駄々をこねるかのようになっている。

 

少し話が逸れるが、先日読んだ本には、

 

神様を味方につける、という考え方が紹介されていた。

 

例えば、野球をする少年Aと少年Bがいたとして、

 

自分のバットを感謝の念を込めて綺麗にするA君と、

 

適当に掃除をするB君では、歴然の差が生まれるという。

 

総じて、日本の古くから受け継がれてきた、

 

「八百万の神」の考えと似ているのではないだろうか。

 

一つ一つの分野に、それぞれの神様がいて、

 

ある法則に従い、彼らと接した者を応援する構造があるというものがあると綺麗に説明されていた。

 

そこに(それらの行動に)

 

意志は必要なのだというのだから、

 

これまた面白い考え方だと思った。

 

そして、”利他”と似ているとも。

 

その者が何を考えているかよりも、

 

何を行ったのかが重要であり、

 

宇宙もその法則に則って動いているといえるのではないかと。

 

しかし、そうなると、

 

私は自分の力不足によって、吹き出された

 

劣等感や、コンプレックスなどの大きなエネルギーに対して

 

押し負けることなく、

 

着々と作業を進める忍耐力が必要になることになる。

 

ここで、思考が一周したことになるのだが、

 

考える前とやらなければならないタスクが同じだなんて

 

なんとも不気味な感じがする。

 

あれ、結局何をすればいいのだ。