脳内エンドルフィンが活気よく踊っている。

 

あぁ、本当にどうしてしまったんだ、私よ。

 

自分の手にペンを握らせてしまうと、ついついそう言いたくなってしまう。

 

仕方あるまい、気づいたら変な文章が書けてしまうのだから。

 

気づけば僕は一人ぼっちだった、という設定はアニメではよくあるが、

 

現実ではそう上手くことは運ばない。

 

それほど自分に意識を向けるほどの出来事すら起こらない。

 

それが現実。

 

ただ時間を浪費していることにも気づかず、いつのまにか沼にハマって、出ようとするものは激痛が降る。

 

なんと残酷な世の中なのだろうと、世間では常套句のように使われるから、自分も

 

会話の中で使ってみたいと思い、使ってしまい、ついにはそれが自身の性格にまで

 

影響を及ぼしている気がする。

 

つまり、もっとダメな方向に進んでいる気がする。

 

そう。

 

こうやって、つまり、とか、よって、とか接続後を使うとカッコよく聞こえたり

 

まるで押し売りセールのように、未来の自分からの失笑が聞こえてくる。

 

何をやっているのだろう、と。

 

ある時は、外国人の友達が欲しいからと、訳もわからずとにかく周りで人気が高かったフランス語を勉強しようとしたが、

 

三日坊主ならぬ一日坊主で終わってしまった。

 

そうなってくると、もっと基本的なもので、もっと簡単な作業はないかと

 

100ページほどのビジネス本を拾っては、食事を飲み込む動作が心地いいのと同じように、満足感を適度に補給している始末。

 

僕は何をやりたいのだろう。

 

いや、それは違うはずだ!

 

何度もこうやって、自分を鼓舞してきた。

 

やりたいことがわからない時って、結局のところ、他の面で生活がなんやかんや忙しかったり、それで疲れたりして、やりたいことをワクワクしながら考える時間を作れていないだけなんじゃないのか!

 

本当に全力を出したのか!

 

今こそ鎖から力を解き放つ時だ、と。

 

別にダークアンドダークみたいな存在がそばにいなくとも、その素質は僕の中にもあるはずだ。

 

そうだろう。

 

とは言ったものの、好き放題やろうとして、成功した人はあまりみたことがない。

 

”二兎を追う者は一兎をも得ず”

これは、来中国から伝わる歴史から教えられる必然性の一つだ。

 

みな、何かしらを犠牲にして今を生きている。

 

要は、何を犠牲にするのか、その対価として何が欲しいのか、という欲望によって人と人は対立したり、共感したりしている。

 

そして、何がしたいのかを自分があきらめてしまったら、ただ却下されるかもしれないこの質問を投げかけてくれた勇敢なる私の一部を否定することになってしまう。

 

無様で結構、という心の訴え。

 

あのかっこいいアイアンマンの主人公、トニー・スタークのセリフで

 

”sometimes you have to run before you walk” とある。

 

自分から失敗するくらいの方が成長が望める。

 

今ではそれが一番の教訓のような気がする。

 

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こんな変な文章を世の中に出すのは恥ずかしいですが、自分より変な人がいるとなんかホッとすると言っている人がいたから、出してみようかと思いました。

 

なにかしら役に立てば嬉しいです。